「茶の湯」と「茶道」どう違う?
各種の生成AIにこの質問をすると、大体同じ答えが返ってきます。日本人の共通理解とみていいでしょう。
・茶の湯とは…抹茶を点てて楽しむこと、お茶会、おもてなしの行為。
視点としては、文化的で、やや古風。
視点としては、文化的で、やや古風。
・茶道とは…(裏千家では『ちゃどう』と読みます。)
お茶を点てる行為を通して、精神性を修養。
礼儀作法を身につける『道』であって、体系化されたもの。哲学的。
お茶を点てる行為を通して、精神性を修養。
礼儀作法を身につける『道』であって、体系化されたもの。哲学的。
「茶の湯とは、ただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし」
この言葉は、利休居士の言葉として伝えられていて、『利休道歌(利休百首)』の中におさめられています。
この言葉は、利休居士の言葉として伝えられていて、『利休道歌(利休百首)』の中におさめられています。
入門したての頃は、これを言われても、「それ以外に何があるのか」と思ってしまいます。
しかし、何年かお茶(茶の湯?茶道?)を続け、点前の所作や精神的修練を先生から教えていただくにつれ、本質が分からなくなってきます。そのとき、この言葉を聞くと、また違った感慨を持ちます。
さて、日本には『道』のつく文化体系が、いろいろあります。
剣道、柔道、弓道、合気道、空手道などの武道系のもの、茶道、華道、書道、香道などの文科系のもの、日本人以外でも注目されている武士道(何系というのでしょうか…)。
これらは主に、明治時代以降に体系化されたようです。
では、茶道という言葉はいつごろから、でてきたのでしょうか。
室町時代には、『茶の湯』の言葉が使われました。
15世紀以降、村田珠光、武野紹鴎、千利休という系統では茶の湯の精神性が深められ、わび茶が確立されました。その後、江戸時代初期に『道(どう)』の部分が重要視され始め、精神性を深めていき、概念として定着したのは、江戸時代中期以降というのが定説です。
千利休自身は、茶の湯を「数寄道(すきどう)」と呼び、古田織部は「茶湯」と呼び、小堀遠州が「茶の道」と「道」の字を使い始め、それが「茶道」という言葉につながっていったとも言われています。
「数寄」とは、本来「好き」のことです。
「歌」が文化の中心を占めていた平安時代には「数寄」は「歌道」を表していたのが、歌道が廃れるにつれ、「茶の数寄」を表すようになっていったという背景から、利休が茶事に使う座敷を数寄屋と名付け、数寄道に繋がっていったのかもしれません。
「歌」が文化の中心を占めていた平安時代には「数寄」は「歌道」を表していたのが、歌道が廃れるにつれ、「茶の数寄」を表すようになっていったという背景から、利休が茶事に使う座敷を数寄屋と名付け、数寄道に繋がっていったのかもしれません。
近代においては、数寄者(すきしゃ)は、茶の湯を趣味とする人を指します。
特に「名物(茶道具として特別な物)」に関心を寄せた人がたくさん出現します。財閥出身者や個人資産家が、日本国外に流出した美術品など買い取り、大規模な茶会を開催したりしました。現在、価値ある茶道具を所蔵する美術館がたくさんありますが、その貴重な品々を収集した人たち、益田鈍翁、原三渓、松永耳庵、根津青山(嘉一郎)、小林逸翁(一三)、高橋箒庵、畠山即翁(一清)、五島慶太、細川護立、大原孫三郎、川喜田半泥子、松下幸之助という方たちがいたからこそ、現代の我々は、古い時代からの貴重な茶道具を鑑賞できるのです。
特に「名物(茶道具として特別な物)」に関心を寄せた人がたくさん出現します。財閥出身者や個人資産家が、日本国外に流出した美術品など買い取り、大規模な茶会を開催したりしました。現在、価値ある茶道具を所蔵する美術館がたくさんありますが、その貴重な品々を収集した人たち、益田鈍翁、原三渓、松永耳庵、根津青山(嘉一郎)、小林逸翁(一三)、高橋箒庵、畠山即翁(一清)、五島慶太、細川護立、大原孫三郎、川喜田半泥子、松下幸之助という方たちがいたからこそ、現代の我々は、古い時代からの貴重な茶道具を鑑賞できるのです。
(2025.6.25 閑話休題)
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