ラベル 禅語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 禅語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年3月5日木曜日

今日の軸:「明珠在掌」

  今日の軸:「明珠在掌(みょうしゅ たなごころにあり)」

『明珠』とは、本来は、曇りのない美しい珠、真珠の類を指します。転じて、真の宝や非常に優れた人物のことも表します。
『掌』は「たなごころ」と読み、手のひらのことです。

禅語的には、かけがえのない宝(明珠)は遠くにあるのではなく、すでに自分の手の中(掌中)にある。かけがえのない宝=幸せ・喜び、は自分の中にある、という意味になります。
たとえ今の自分をダメだと思っていても、自分の奥には常に輝く可能性が眠っているという、希望の教えです。自分自身の命の尊さを知り、自分を愛すること。仏教では、この内なる仏性を引き出す修行を大切にするそうです。

「自分には特別何も無いと落ち込む必要はありません。どなたもこの自己の中に光輝く存在、宝を持っているのです。」は、大本山東福寺塔頭 霊源院塔頭の和尚様のお言葉です。

人生の選択の大きな節目に直面しているみんなには、忘れないでいてほしい四字熟語です。

(2026.2.28 談、補)


2025年12月21日日曜日

今日の軸:「無事」

 「無事(ぶじ)」

12月になり、歳の終わりが近づいてきました。
今年を振り返り、来年への繋がりを考える…古人からの慣習と言えます。

12月によく使われる禅語として「無事」があります。
「無事」は普通の辞書を引くと「取り立てて言うほどの変わったことがないこと。ひまなこと。何もしないこと。」などとあります。「何もないことは佳いこと」と日常では肯定的に使っています。

茶席にこの言葉が掛けてあったら、「一年間無事で過ごせたことを寿ぎましょう。」ということと思ってOKですが…

ここでは、禅的解釈を少しだけ解説してみます。まだまだ修行中の身では、とても「無事」の境地にはたどり着けませんが。

「無事」は「むじ」とも読みます。むじ、のほうが禅語っぽい読み方と思ってしまいますが、どちらでもいいようです。

仏教で「無事」は、「煩悩やこだわりがなく、本来の仏としての自分に目覚め、心が穏やかで安定した状態」「何かが起こっても、普段と変わりのないように過ごせる境地」を意味します。

人生、良いことが起こっても、悪いことが起こっても、一喜一憂せずに平然と生きていける境地が「無事」ということです。
俗っぽく言えば、他人は自分のことをどう思っているか、とか、あいつには負けたくない、自分のほうが優れている、とか、今の生活でいいのだろうか、自分にはもっと向いている道があるんじゃないか、とか考えずに、自分の内面を見つめ、自分を信じる境地に到達できてこそ「無事」である、ということでしょう。

相変わらず、禅語は難しいですね。

(2025.12.21 補)

2025年6月11日水曜日

今日の軸:「千年翠」

今日の軸:「千年翠(せんねんのみどり)」

この場合の翠は、松の木をあらわし、長寿をお祝いする席などで使われる言葉です。

が!

禅語では、『松樹千年翠 不入時人意』と続いています。
この対句の部分は『ときのひとにいらず』と読み、『ときのひと』つまり『世の中で注目される人』には入らない⇒世の中で目立たない人⇒注目されていない、となります。

で、どうなるか、と言うと…

松の木は、千年(長い時間のこと)の時を経ても、変わらず緑を保っているが、人々はその背景にある目立たない地道な努力があることを、見逃してはならない、という意味です。

『松柏千年靑』も同じ意味です。こちらのほうが先らしい(?)。

もともとは、南宋時代の禅僧・石田法薫(1171~1245)の法語であり、禅語集『続伝灯録』には

松柏千年靑  松柏(しょうはく) 千年(せんねん)の 青(あお) 
不入時人意  時人(じじん)の 意(い)に 入(い)らず
牡丹一日紅  牡丹(ぼたん) 一日(いちじつ)の 紅(くれない)
滿城公子醉  満城(まんじょう)の 公子(こうし) 酔(よ)

とあります。後半の『牡丹云々』は、『牡丹のような一日しか咲かない紅の(華美な)花には、城の中の貴人の誰もが心奪われる』となりますが…

だから、何を言いたいのかな?

禅語の意味するところは、難しいの一言につきます。私たちは禅の修行をしていませんから、悟りを開いた禅のお坊さまたちの解釈を聞くに限ります。

今回の『松樹千年翠』で感じ入った解説は、
「この禅語は、千年の寿を寿ぐだけの言葉ではありません。時の長さではないのです。どのような時にも驕らず、屈せず、ただひたすら自分の道を行く、変わらぬ道心を讃える言葉です。・・・どんなことであっても、大切なのは、次の一歩。この次の一歩を全身全霊で続けることが、千年の寿に相応しいことだ、千年の寿に負けない大切な修行の魂なのだ、ということを言っているのです。」
というお坊様の言葉でした。

参考:
https://note.com/myoukishuken/n/n3454ae06c3c7

(2025.6.10 補)


2025年5月29日木曜日

今日の軸:「葉々起清風」

 「葉々起清風(ようようせいふうをおこす)」

5月から7月に掛けられることが多い言葉です。

木々の葉が揺れて、さわやかな風を起こしている…というような、水彩画で書いてみたいような初夏の自然の風景を思い起こさせます。
・・・と、ここまでは、この字句だけからみる凡人の感想ですが。

実は、原典には、「為君葉々起清風」と「為君」が頭についています。この「為君」がつくと、「あれっ?単なる風景描写ではない?」と分かってくるのですが。

南宋時代の禅僧・虚堂智愚禅師(1185-1269)の遺した語録『虚堂緑』が出典です。

誰知三隱寂寥中 (たれ)か知る 三隠(さんいん)寂寥(せきりょう)の中(うち)
因話尋盟別鷲峯 話に因(より)て 盟(めい)を尋(つい)で 鷲峰(しゅうほう)に 別れんとするを
相送當門有脩竹 (あい) 送りて 門に 当たれば 修竹 有(あ)
爲君葉葉起清風 君が為に 葉葉(ようよう) 清風を 起こす

虚堂智愚禅師は、南宋時代の有名な禅僧です。(門下の大応国師は日本の臨済禅の礎です。)
その禅師のもとに三人の禅僧(衍・行鞏 ・如珙)がやってきました。三人は中国浙江省の天台山国清寺に旅立とうとして、虚堂禅師のいる鷲峯庵を訪ねてきたのです。国清寺は、伝説の禅僧、寒山・拾得(絵画にもよく描かれていて、東京博物館所蔵の『寒山拾得図軸』は重要文化財)と師の豊干和尚の三聖のいたところです。そこに修行に向かう三人の清らかな志に深く共鳴している虚堂禅師が門まで送りに来ると、一陣の風が吹き、そばの竹の葉が、さやさやと揺れました。揺れている竹の葉が、友人たちを送っているかのよう…

この詩は『送僧頌』として知られています。
「頌」「偈頌(げじゅ)」は、禅宗では、仏の功徳や教え、悟りの境地などを賛美する詩や歌のことで、経典の中や、禅僧などが詠んだ詩を指します。

ということから考えると、この頌は何を言わんとしているのでしょうか。
旅もままならない時代、もう会えないかもしれないという想いもあるが、清らかな志をもって、修行に向かう同志、シンクロする想い…
一陣の風、我が心に同調するように揺れる笹の葉…
言葉にできないせつない気持ちを代弁してくれているような…

もともと、禅語は以心伝心の世界。
修行もできてない凡人でも、その人なりに何かを感じることが大事です。
(2025.5.27 補)

2025年5月6日火曜日

今日の軸:「春色無高下」

「春色無高下(しゅんしょくこうげなし)」

春はすべてのものに平等に降り注いでいる、という情景を詠んでいます。
(「だから何?」とつっこみたくなりますね!)

原典は、『圜悟語録』。実は、この句には、対句があります。

 春色高下無し(しゅんしょくこうげなし)
 華枝自短長(かし おのずから たんちょう)

対句とともに、この字句は何を言いたいのか、禅的な解釈を紹介します。

前半は、「春の日差しが山や川、花々や木々、すべての動物(お金持ちにも貧乏な人にも、偉い人にも偉くない人にも)、すべてのものに平等に降り注いでいる。」という 万物平等 を説いています。
後半は、「春の日差しが、平等に降り注いていても、花の枝は、短いものも長いものもあって差があり、自然と長短が出来てきて、個性が存在する。」という現実を説いています。
(仏教的には、「差別が存在する」という表現をします。しかし、『差別』という言葉は、現代の辞書や条例で、「差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である」というような定義をされていて、マイナスイメージの言葉と捉えられるので注意が必要です。仏教でいう『差別』は『違いがある』ことだけを言っていると言葉と解釈してください。)

仏教の説く『平等即差別、差別即平等』の根本思想を具現化している言葉です。つまりは、『万物はみな平等だが、その中では違いも個性も存在する。それもそれで大事。両方の概念を認めてバランスを取った考え方をしよう』ということになります。

ネット上には、この字句についての解釈が散見されます。解釈の微妙な違いもあり、比べて読んでいると、訳が分からなくなってきたりしますが、修行中の一般人の私たちとしては、『華枝自短長』という心で対応していきまょう。

【参考サイト】
(2025.4.26 談)


2025年3月26日水曜日

今日の軸:「喫茶去」

「喫茶去(きっさこ)」

「和敬清寂」(利休さまの説く茶道の極意)⇒「一期一会」(すべての出会いの極意)⇒「喫茶去」(おもてなしの極意)と続く、茶の湯の基本的な概念です。

「どうぞ、お茶でも召し上がってくださいな」という意味で、茶席で好まれる禅語です。

ただ、禅宗では「お茶を飲みに行け、お茶を飲んで目を覚まして来い」という叱責する言葉だそうで…
『趙州喫茶去の公案』としてなかなか意味深い解釈を求められているものです。
  ※趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は唐代の禅僧

茶の湯初心者の私たちとしては、最終的にめざす境地として、「お茶でのおもてなしは、相手の地位や肩書にとらわれることなく、平等に接しなさい。」という心の在り方です。
亭主は『和敬』の心をもって「お茶を一服いかがですか」と言い、客のほうも変なことを言って辞退したり緊張していただいたりすることなく、『和敬』の心をもって素直に「いただきます。」とありがたくいただいて味わう…これがお茶の世界の醍醐味です。
注意!
「なんか図々しい人ね」と思われないように!!
それには…日頃が物をいいますね!!!

---------------------
【原典】『五灯会元、巻四、趙州従諗禅師』、『趙州録』、『碧巌録』
師問新到、曾到此間麼(し しんとうに とう、かつて すかんに いたるや。)
曰、曾到。(いわく、かつて いたる。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
又問僧。(また そうに とう。)
僧曰、不曾到。(そう いわく、かつて いたらず。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
後院主問曰、爲甚麼曾到也云喫茶去、不曾到也云喫茶去。のち、いんじゅ、とうて いわく、なんとしてか、かつて いたるにも また きっさこといい、かつて いたらざるにも また きっさこといいし。)
師召院主。(し、いんじゅ と めす。)
主應喏。(じゅ、おうだく す。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)

※ 「到此間麼」は、物理的な意味のココではなく、精神的な意味でのココ(つまり悟りの境地)を意味していることに気づくとわかりやすい、という解説がありました。
う~~~ん!
たしかに、そう考えると『喫茶去』は院主を叱責している言葉であることも、理解できます。
禅語は、難しいですね。

今日のもう一つの言葉(?)『円相』については、いずれ!
(2025.3.25 談)




2025年3月8日土曜日

今日の軸:「歳月不待人」

 「歳月不待人(さいげつ ひとを またず)」

12月や、年度の切れ目に床にかけられることが多い字句です。
学生でなくとも、師走ともなれば、あ~あ、今年ももう終わっちゃったなあ、という感慨とともにつぶやきたくなります。

一般的には、「歳月は待ってくれない。若いうちに勉学を励もう」「年月は人間の営みに関係なく、刻刻と過ぎてしまい、待ってはくれない。だから頑張ろう」「限られた時間を大切にしよう」というような、どちらかというと叱咤激励するような意味で使われます。

この字句を見て、同様な意味で「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という字句を思い浮かべてしまう人も多いことと思います。

ただ、本歌『陶淵明:雜詩其一』にある意味はちょっと違っているようで…
ちゃんと調べてみると…あれれれれ?
マ、イイジャナイデスカ!これもまたこれで楽しいですネ。一理ありますから!

【参考】
陶淵明:「雜詩 其一」 
 人生無根蔕 じんせいは こんていなく
 飄如陌上塵 ひょうとして はくじょうの ちりのごとし
 分散逐風轉 ぶんさんし かぜをおって てんじ
 此已非常身 これ すでに つねのみに あらず
 落地為兄弟 ちにおちて けいていと なる
 何必骨肉親 なんぞ かならずしも こつにくの しんのみ ならん
 得歓當作楽 かんをえては まさに たのしみを なすべし
 斗酒聚比鄰 としゅ ひりんを あつむ
 盛年不重来 せいねん かさねて きたらず
 一日難再晨 いちじつ ふたたび あした なりがたし
 及時當勉励 ときにおよんで まさに べんれいすべし
 歳月不待人 さいげつは ひとを またず

朱熹(朱子):「偶成」(近年は、作者は別人との説あり)
 少年易老學難成 しょうねん おいやすく がく なりがたし
 一寸光陰不可輕 いっすんのこういん かろんずべからず
 未覺池塘春草夢 いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ
 階前梧葉已秋聲 ごよう すでに しゅうせい
(2025.3.7 談・補)



2024年12月21日土曜日

今日の軸:「関 南北東西活路通」

 【関 南北東西活路通(かん なんぼくとうざいかつろにつうず)】

年末・年始や門出を祝うときなどによく使われる禅語です。
意味は、「難関を通過できれば、その先はどこへでも行ける道が広がっている。」
禅語は難しいですが、なんとなく雰囲気がわかればまずはOKです。


【もう少し詳しく解説】

鎌倉時代に大徳寺を開山した大燈国師が悟りを開いたときの境地を漢詩にしたものの一部です。その漢詩はこちら。
 一回透得雲關了 南北東西活路通 夕處朝遊沒賓主 脚頭脚底起淸風
(意味 https://zenzine.jp/learn/zenpoetry/508/ 参照)
 ひとたび雲門の関を通過し終わってみると、東西南北、あまねく自由自在の活路がゆきわたる。どこにいようとも、いつ何どきも、自分と相手の区別はなく、その足どりは徹頭徹尾、清風を巻き起こすのだ。

「関」という漢字は、もとは ( 門戸をとめる横木、貫木(かんのき)の意から ) 出入りを取りしまるための門のことですが、ここでは悟りに続く関所のことで、「活路」とは生きる道のこと。越えられないと思っていた難関を超えたとき(悟りを得たとき)、東西南北に道が開けるような本物の自由が待っていた、というような意味だそうです。(悟ってない凡人にはわからない境地?)

禅宗では、悟りを開くための修行として座禅と公案などがあります。この公案というのは、禅問答とも呼ばれ、師匠が弟子に与える問です。論理とか思考の枠を超えた直感的な悟りを得るための手段です。大燈国師にあたえられた公案「関」に対する回答が上の漢詩です。

この「関」という公案は「雲門の関」と呼ばれ、中国の仏教書『碧巌録』(公案を100集めたもの)にもあるものです。

【予告】
大徳寺と利休居士の関係も理解しておくことは大事なので、また、そのうちに。

(2024.12.19 談)




2024年12月7日土曜日

はじめての軸

【床に軸をかける】 

軸は、茶席では最重要なアイテムです。
亭主からの今日の茶会のテーマやメッセージが込められています。
茶席に入り、軸を拝見して、今日の茶席の趣向を楽しみにする…のが醍醐味です。
茶席の軸は、墨蹟、消息、短冊、画賛、唐絵、和歌など各種ありますが、
禅語を書いた墨蹟が使われることが多いです。
季節感のある禅語、心根を表す禅語などがよく選ばれます。
人それぞれの経験や心情なども影響するので、禅語の解釈は難しいです。

【お茶のはじめは『一期一会』から】
 『一期一会』という言葉は、茶道の本質を表している言葉です。
 『一期』は仏教語で、一生を表します。
 茶会は、二度と同じものはなく、一生に一度の出会いであるから大切にしよう、
 という客と亭主の双方の心構えを説いています。

 利休居士の高弟であった山上宗二の書いた『山上宗二記』に利休が言った言葉として
 「一期ニ一度ノ会のヤウニ」とあります。
 それを江戸時代後期の大老で茶人でもあった井伊直弼の著書『茶湯一会集』のなかで
 『一期一会』と表現しました。

 まずは、『一期一会』を心して、茶の道を進みましょう。

(2024.11.21 談)

茶の湯で使う扇子の意味