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2025年12月23日火曜日

今日の軸:「忙中閑」

 今日の軸:「忙中閑(ぼうちゅうかん)」賛

年末になり、なんとなく気ぜわしくなってきました。
なぜ、年末がそんな気になるのでしょうか。
「別に新年に客がくるわけでもないから掃除なんていらないし、おせちなんて出来合いを買ってくればいいじゃないか」と思うかどうか、は個人の自由ではあるのですが、やはり、日本人として生まれ、日本という国に育ち、(たぶん)日本人的思考が身についている私たちは、先人たちが新年をどういう気持ちで迎えていたか、を知っておくのもいいのではないか、と思います。
「人は何故、新年を祝うのか」と言うような疑問を生成AIに聞いてみてください。伝統的なことのほかに、新年に対する日本と外国の考え方の違いなども知っておくといいでしょう。

さて、本題です。

「忙中閑」は日常的には「忙中閑あり」と言います。
「閑」はヒマではなく、「心が静かな、おだやかなこと」で「実際の時間」を意味します。
「忙しい最中にも、わずかながら心のゆとりある静かな時間がある」という意味で、「忙しいときにこそ、わずかでも心のゆとりや静かな時間を持つべき」というようにも変化します。

『賛』とは:
『讃』とも書きます。『賛』は、言葉・詞(ことば)を添えて助けることですが、絵+詞の形式のものを言います。
唐時代からの呼び方で、のちには、「題」とか「祓(はらえ)」とか呼ばれるようになったと言います。この表現方法は、中国での山水画のジャンルの一つの詩画一致の思想に基づき描かれたものからきていて、日本では奈良時代頃から使われてきました。後世、漢詩が和歌になってもOKになっていきます。
茶会では、本席に掛けられるよりも、待合(茶会に参加するときに、初めの通される部屋)などに掛けられる色紙で見られることが多く、カジュアルな感じですが、お正月などには本席で富士山の日の出とか宝船の絵に詞が添えられているものも掛けられたりします。

(2025.12.23 補)



2025年7月6日日曜日

今日の軸:「星河清涼風」

 「星河清涼風(せいが りょうふう きよし/せいか せいりょうのかぜ)」


七夕の時期によく使われます。
「星河」とは、天の川・銀河のことです。
「天の川を眺めていたら、涼風が吹いてきた。(身も心も清らかな気分になった。)」ということでしょう。

一応、禅語と言われますが、原典は見つかりませんでした。ただ、中国4000年の歴史ですから、どこかの書物にこの言葉があるのかもしれません。

茶の湯でのおもてなしは茶事に集約されます。
茶事とは、単にお茶を飲むだけでなく、亭主と客の心の交流を深めることを目的としています。ある一定の形式で進められるものです。儀式という人もいますが、宗教色があるわけでもなく、堅苦しいものでもありませんが、茶の湯の世界を知らないと、戸惑うことにはなるでしょう。
お客をもてなすための茶事では、テーマを決めて軸の言葉を選んだり、道具を取り揃えたりします。テーマとして、お正客の還暦をお祝いする茶事など、お呼びした正客絡みのものもありますが、気の置けない仲間を招待するときには、季節的なものや年中行事を選んだりもします。

七夕は、実は日本の伝統的な行事『五節句』の一つです。
五節句は、中国から伝わった風習をもとに、日本独自の文化と結びつき宮中の年中行事になり、庶民にも広がり発展してきました。
・人日(じんじつ)1月7日 七草の節句 七草粥を食べて無病息災を祈る
・上巳(じょうし)3月3日 桃の節句(ひな祭り) 女の子の成長と健康を願う
・端午(たんご) 5月5日 菖蒲の節句(こどもの日) 男の子の健やかな成長を祝う
・七夕(しちせき)7月7日 星祭り 織姫と彦星の伝説にちなみ、願いごとを書く
・重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句 長寿や厄除けを願う

それぞれ季節の節目として『節句』という言葉が用いられています。
かくして、恰好の茶事のテーマとして使われることも多いです。
で、いまの時期は、『七夕』というわけです。

五節句については、そのうち、解説しますね。

さて、たびたび「茶事」の言葉を聞くことも出てきました。なんなんだろう、経験してみたいなあ、と思い出していることと思います。(そうであってほしい…)
薄茶と濃茶の平点前ができるようになって、炭手前が理解できるようになったら…ね。
(2025.7.5 談)



2025年6月11日水曜日

今日の軸:「千年翠」

今日の軸:「千年翠(せんねんのみどり)」

この場合の翠は、松の木をあらわし、長寿をお祝いする席などで使われる言葉です。

が!

禅語では、『松樹千年翠 不入時人意』と続いています。
この対句の部分は『ときのひとにいらず』と読み、『ときのひと』つまり『世の中で注目される人』には入らない⇒世の中で目立たない人⇒注目されていない、となります。

で、どうなるか、と言うと…

松の木は、千年(長い時間のこと)の時を経ても、変わらず緑を保っているが、人々はその背景にある目立たない地道な努力があることを、見逃してはならない、という意味です。

『松柏千年靑』も同じ意味です。こちらのほうが先らしい(?)。

もともとは、南宋時代の禅僧・石田法薫(1171~1245)の法語であり、禅語集『続伝灯録』には

松柏千年靑  松柏(しょうはく) 千年(せんねん)の 青(あお) 
不入時人意  時人(じじん)の 意(い)に 入(い)らず
牡丹一日紅  牡丹(ぼたん) 一日(いちじつ)の 紅(くれない)
滿城公子醉  満城(まんじょう)の 公子(こうし) 酔(よ)

とあります。後半の『牡丹云々』は、『牡丹のような一日しか咲かない紅の(華美な)花には、城の中の貴人の誰もが心奪われる』となりますが…

だから、何を言いたいのかな?

禅語の意味するところは、難しいの一言につきます。私たちは禅の修行をしていませんから、悟りを開いた禅のお坊さまたちの解釈を聞くに限ります。

今回の『松樹千年翠』で感じ入った解説は、
「この禅語は、千年の寿を寿ぐだけの言葉ではありません。時の長さではないのです。どのような時にも驕らず、屈せず、ただひたすら自分の道を行く、変わらぬ道心を讃える言葉です。・・・どんなことであっても、大切なのは、次の一歩。この次の一歩を全身全霊で続けることが、千年の寿に相応しいことだ、千年の寿に負けない大切な修行の魂なのだ、ということを言っているのです。」
というお坊様の言葉でした。

参考:
https://note.com/myoukishuken/n/n3454ae06c3c7

(2025.6.10 補)


2025年5月29日木曜日

今日の軸:「葉々起清風」

 「葉々起清風(ようようせいふうをおこす)」

5月から7月に掛けられることが多い言葉です。

木々の葉が揺れて、さわやかな風を起こしている…というような、水彩画で書いてみたいような初夏の自然の風景を思い起こさせます。
・・・と、ここまでは、この字句だけからみる凡人の感想ですが。

実は、原典には、「為君葉々起清風」と「為君」が頭についています。この「為君」がつくと、「あれっ?単なる風景描写ではない?」と分かってくるのですが。

南宋時代の禅僧・虚堂智愚禅師(1185-1269)の遺した語録『虚堂緑』が出典です。

誰知三隱寂寥中 (たれ)か知る 三隠(さんいん)寂寥(せきりょう)の中(うち)
因話尋盟別鷲峯 話に因(より)て 盟(めい)を尋(つい)で 鷲峰(しゅうほう)に 別れんとするを
相送當門有脩竹 (あい) 送りて 門に 当たれば 修竹 有(あ)
爲君葉葉起清風 君が為に 葉葉(ようよう) 清風を 起こす

虚堂智愚禅師は、南宋時代の有名な禅僧です。(門下の大応国師は日本の臨済禅の礎です。)
その禅師のもとに三人の禅僧(衍・行鞏 ・如珙)がやってきました。三人は中国浙江省の天台山国清寺に旅立とうとして、虚堂禅師のいる鷲峯庵を訪ねてきたのです。国清寺は、伝説の禅僧、寒山・拾得(絵画にもよく描かれていて、東京博物館所蔵の『寒山拾得図軸』は重要文化財)と師の豊干和尚の三聖のいたところです。そこに修行に向かう三人の清らかな志に深く共鳴している虚堂禅師が門まで送りに来ると、一陣の風が吹き、そばの竹の葉が、さやさやと揺れました。揺れている竹の葉が、友人たちを送っているかのよう…

この詩は『送僧頌』として知られています。
「頌」「偈頌(げじゅ)」は、禅宗では、仏の功徳や教え、悟りの境地などを賛美する詩や歌のことで、経典の中や、禅僧などが詠んだ詩を指します。

ということから考えると、この頌は何を言わんとしているのでしょうか。
旅もままならない時代、もう会えないかもしれないという想いもあるが、清らかな志をもって、修行に向かう同志、シンクロする想い…
一陣の風、我が心に同調するように揺れる笹の葉…
言葉にできないせつない気持ちを代弁してくれているような…

もともと、禅語は以心伝心の世界。
修行もできてない凡人でも、その人なりに何かを感じることが大事です。
(2025.5.27 補)

2025年5月6日火曜日

今日の軸:「春色無高下」

「春色無高下(しゅんしょくこうげなし)」

春はすべてのものに平等に降り注いでいる、という情景を詠んでいます。
(「だから何?」とつっこみたくなりますね!)

原典は、『圜悟語録』。実は、この句には、対句があります。

 春色高下無し(しゅんしょくこうげなし)
 華枝自短長(かし おのずから たんちょう)

対句とともに、この字句は何を言いたいのか、禅的な解釈を紹介します。

前半は、「春の日差しが山や川、花々や木々、すべての動物(お金持ちにも貧乏な人にも、偉い人にも偉くない人にも)、すべてのものに平等に降り注いでいる。」という 万物平等 を説いています。
後半は、「春の日差しが、平等に降り注いていても、花の枝は、短いものも長いものもあって差があり、自然と長短が出来てきて、個性が存在する。」という現実を説いています。
(仏教的には、「差別が存在する」という表現をします。しかし、『差別』という言葉は、現代の辞書や条例で、「差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である」というような定義をされていて、マイナスイメージの言葉と捉えられるので注意が必要です。仏教でいう『差別』は『違いがある』ことだけを言っていると言葉と解釈してください。)

仏教の説く『平等即差別、差別即平等』の根本思想を具現化している言葉です。つまりは、『万物はみな平等だが、その中では違いも個性も存在する。それもそれで大事。両方の概念を認めてバランスを取った考え方をしよう』ということになります。

ネット上には、この字句についての解釈が散見されます。解釈の微妙な違いもあり、比べて読んでいると、訳が分からなくなってきたりしますが、修行中の一般人の私たちとしては、『華枝自短長』という心で対応していきまょう。

【参考サイト】
(2025.4.26 談)


2025年3月26日水曜日

今日の軸:「喫茶去」

「喫茶去(きっさこ)」

「和敬清寂」(利休さまの説く茶道の極意)⇒「一期一会」(すべての出会いの極意)⇒「喫茶去」(おもてなしの極意)と続く、茶の湯の基本的な概念です。

「どうぞ、お茶でも召し上がってくださいな」という意味で、茶席で好まれる禅語です。

ただ、禅宗では「お茶を飲みに行け、お茶を飲んで目を覚まして来い」という叱責する言葉だそうで…
『趙州喫茶去の公案』としてなかなか意味深い解釈を求められているものです。
  ※趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は唐代の禅僧

茶の湯初心者の私たちとしては、最終的にめざす境地として、「お茶でのおもてなしは、相手の地位や肩書にとらわれることなく、平等に接しなさい。」という心の在り方です。
亭主は『和敬』の心をもって「お茶を一服いかがですか」と言い、客のほうも変なことを言って辞退したり緊張していただいたりすることなく、『和敬』の心をもって素直に「いただきます。」とありがたくいただいて味わう…これがお茶の世界の醍醐味です。
注意!
「なんか図々しい人ね」と思われないように!!
それには…日頃が物をいいますね!!!

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【原典】『五灯会元、巻四、趙州従諗禅師』、『趙州録』、『碧巌録』
師問新到、曾到此間麼(し しんとうに とう、かつて すかんに いたるや。)
曰、曾到。(いわく、かつて いたる。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
又問僧。(また そうに とう。)
僧曰、不曾到。(そう いわく、かつて いたらず。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
後院主問曰、爲甚麼曾到也云喫茶去、不曾到也云喫茶去。のち、いんじゅ、とうて いわく、なんとしてか、かつて いたるにも また きっさこといい、かつて いたらざるにも また きっさこといいし。)
師召院主。(し、いんじゅ と めす。)
主應喏。(じゅ、おうだく す。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)

※ 「到此間麼」は、物理的な意味のココではなく、精神的な意味でのココ(つまり悟りの境地)を意味していることに気づくとわかりやすい、という解説がありました。
う~~~ん!
たしかに、そう考えると『喫茶去』は院主を叱責している言葉であることも、理解できます。
禅語は、難しいですね。

今日のもう一つの言葉(?)『円相』については、いずれ!
(2025.3.25 談)




2025年3月8日土曜日

今日の軸:「歳月不待人」

 「歳月不待人(さいげつ ひとを またず)」

12月や、年度の切れ目に床にかけられることが多い字句です。
学生でなくとも、師走ともなれば、あ~あ、今年ももう終わっちゃったなあ、という感慨とともにつぶやきたくなります。

一般的には、「歳月は待ってくれない。若いうちに勉学を励もう」「年月は人間の営みに関係なく、刻刻と過ぎてしまい、待ってはくれない。だから頑張ろう」「限られた時間を大切にしよう」というような、どちらかというと叱咤激励するような意味で使われます。

この字句を見て、同様な意味で「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という字句を思い浮かべてしまう人も多いことと思います。

ただ、本歌『陶淵明:雜詩其一』にある意味はちょっと違っているようで…
ちゃんと調べてみると…あれれれれ?
マ、イイジャナイデスカ!これもまたこれで楽しいですネ。一理ありますから!

【参考】
陶淵明:「雜詩 其一」 
 人生無根蔕 じんせいは こんていなく
 飄如陌上塵 ひょうとして はくじょうの ちりのごとし
 分散逐風轉 ぶんさんし かぜをおって てんじ
 此已非常身 これ すでに つねのみに あらず
 落地為兄弟 ちにおちて けいていと なる
 何必骨肉親 なんぞ かならずしも こつにくの しんのみ ならん
 得歓當作楽 かんをえては まさに たのしみを なすべし
 斗酒聚比鄰 としゅ ひりんを あつむ
 盛年不重来 せいねん かさねて きたらず
 一日難再晨 いちじつ ふたたび あした なりがたし
 及時當勉励 ときにおよんで まさに べんれいすべし
 歳月不待人 さいげつは ひとを またず

朱熹(朱子):「偶成」(近年は、作者は別人との説あり)
 少年易老學難成 しょうねん おいやすく がく なりがたし
 一寸光陰不可輕 いっすんのこういん かろんずべからず
 未覺池塘春草夢 いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ
 階前梧葉已秋聲 ごよう すでに しゅうせい
(2025.3.7 談・補)



2025年2月21日金曜日

今日の軸:「冬嶺秀孤松」

 「冬嶺秀孤松(とうれい こしょう ひいず」

如月(2月)・大寒のときに利用されることが多い禅語です。

「ほとんどの樹木が葉を落としている冬の嶺(みね)で、独り青々と葉を残している松が際立っていること」という景色を表しています。
これを禅語として解釈すると、松を仏様の教えとし、どんなものにも惑わされず、煩わされないことを説いています。人の生き方でも、人の心を苦しめる煩悩や欲望に流されることなく、平然と堂々と凛として生きていきたいものです。
単なる景色を謳ったものとしてではなく、その中から人生の教訓を学び取る…なかなか難しいですね。

原典は、陶淵明(とうえんめい))『四時歌』から
 春水満四澤:春水(しゅんすい)四澤(したく)に満ち
 夏雲多奇峰:夏雲(かうん)奇峰(きほう)多し
 秋月揚明輝:秋月(しゅうげつ)明輝(めいき)を揚げ
 冬嶺秀孤松:冬嶺(とうれい)孤松(こしょう)秀(ひい)ず

春水満四澤は、春爛漫のときに使われることも多い禅語です。

余談です。マツ科の松はほとんどが常緑樹ですが、カラマツ(唐松、落葉松とも書く)は、珍しく葉を落とします。日本原産です。この詩にようにはいきませんが、黄色く紅葉し、芽吹きもとてもきれいです。「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。」で始まる北原白秋の詩は有名ですし、日本の風景画家として有名な東山魁夷は、落葉松を題材とした作品を数多く残しています。陶淵明が日本人だったら、この詩はどう変わったでしょうか…。

(2025.3.20 談・補)

2025年2月10日月曜日

今日の軸:「和敬清寂」

 「和敬清寂(わけいせいじゃく)」

「和敬清寂」は、裏千家では、四規(しき)といい、茶道の根本精神を要約したものです。利休居士が提唱し、江戸時代前期から一般化されたと言われています。

『和』:茶道のすべての基本。茶会では主客双方で心を合わせて茶会を良いものにするためにまず「和」の心が必要です。
『敬』:お互いに尊敬しあうこと。客は亭主にへつらわず、亭主は客に奢らず。互いの思いやりを忘れないように。
『清』:きよらか。目に見える清らかさだけでなく、心の中も清らかであるように。
『寂』:何物にも流されず、どんなときにも動じない心。

・『清』は『静(しずか)』ではないことに注意してください。
・『寂』は、なかなか難しい概念です。『侘び寂び(わびさび)』の『寂』の字です。『わび茶』は、珠光~紹鴎~利休の流れで完成されました。その美意識の根底が『侘び』と『寂び』です。『侘び』は『わぶ』の名詞形で、本来は「気落ちする、心細く思う」というようなマイナスイメージの言葉でしたが、中世になると、不完全/不足の美しさを表現する言葉となります。また、『寂び』は「さぶ」という動詞の名詞形で「古くなる・色あせる」など、やはりマイナスイメージの言葉でしたが、古くなったものが枯れていき、その中に奥深いものや華麗なものが現れるという美意識を表すようになります。折しも中世の「人生の真実を表面的な美しさよりも内面的な充実に求める」という仏教思想に影響され、能、連歌や茶の湯にも精神性が求められていきました。このことから、『寂』は、表面的な美しさ・豊かさより心の美しさ・豊かさを目指す言葉、と解釈されています。
(2025.2.6 補)

2024年12月7日土曜日

はじめての軸

【床に軸をかける】 

軸は、茶席では最重要なアイテムです。
亭主からの今日の茶会のテーマやメッセージが込められています。
茶席に入り、軸を拝見して、今日の茶席の趣向を楽しみにする…のが醍醐味です。
茶席の軸は、墨蹟、消息、短冊、画賛、唐絵、和歌など各種ありますが、
禅語を書いた墨蹟が使われることが多いです。
季節感のある禅語、心根を表す禅語などがよく選ばれます。
人それぞれの経験や心情なども影響するので、禅語の解釈は難しいです。

【お茶のはじめは『一期一会』から】
 『一期一会』という言葉は、茶道の本質を表している言葉です。
 『一期』は仏教語で、一生を表します。
 茶会は、二度と同じものはなく、一生に一度の出会いであるから大切にしよう、
 という客と亭主の双方の心構えを説いています。

 利休居士の高弟であった山上宗二の書いた『山上宗二記』に利休が言った言葉として
 「一期ニ一度ノ会のヤウニ」とあります。
 それを江戸時代後期の大老で茶人でもあった井伊直弼の著書『茶湯一会集』のなかで
 『一期一会』と表現しました。

 まずは、『一期一会』を心して、茶の道を進みましょう。

(2024.11.21 談)

2024年12月6日金曜日

はじめての茶室の設え

 【はじめての床の設え】

1.茶室の大きさはいろいろあります。最初は、基本となる4畳半本勝手の席で勉強します。

2.床は掛物や花・花入を飾る場所です。いろいろな形があります。床面は多くが畳です。
 茶室を見る機会があったら、客用の入り口と床の位置、点前座の位置などに注意。

3.床には、軸(掛物)を掛けます。
 その日の茶会のテーマに沿った禅語がよく使われます。
 もっぱら、禅僧の書いたものです。
 なぜ禅語かというと、現在の茶の湯は、禅宗と深い関わりがあるからです。

4.茶の湯のおもてなしのフルバージョンは、茶事といい、4時間くらいかかるものです。
 食事と炭手前(初座)と濃茶・薄茶でのおもてなし(後座)の2パートに分かれています。
 床には、初座は軸だけ、後座は花だけというのが基本です。
 ただ、食事のない茶席では、軸と花を一緒に飾ります。床のもろ飾りと言います。

5.花入
 花入は、中釘(掛けた軸の後にあって、いつもは見えない)や床柱にかける、
 床の天井から吊るす、床に置く、という3つの方法で使います。
 材質は、金属・磁器・陶器・竹・籠製のものがあります。
 3つの格があり、金物や唐物青磁は『真』、釉薬のかかった陶磁器は『行』、
 釉薬のかかっていない陶磁器や竹・籠などは『草』です。
 畳敷きの床に置くときは、花入の格によって『矢筈板』『蛤場(はまぐりば)』
 『丸香台か木地』の薄板をおきます。ただし、籠の花入は直置きします。
 置くときは、縦に長い軸のときは、下座寄り1/3のところです。

6.花
 茶の湯は、瞬間の美をよし、とします。
 花は、かならず生花で、造花は使いません。
 今まさに開き始めのものや、茶事の最中に満開になるようなものが喜ばれます。
 素晴らしいお花が生けられているとよく「お花はご馳走ネ」と賛美します。

7.風炉先と結界
 風炉先は、四畳半以上の部屋に使われ、道具畳の向うに置かれます。
 そこが壁で囲まれている場合は、使わなくても構いません。
 結界(根竹のアレです)も風炉先の一種ですが、よく、広間で、点前座の向うに
 置いて使います。

(2024.11.7 談)

 
 

茶の湯で使う扇子の意味