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2026年3月5日木曜日

今日の軸:「明珠在掌」

  今日の軸:「明珠在掌(みょうしゅ たなごころにあり)」

『明珠』とは、本来は、曇りのない美しい珠、真珠の類を指します。転じて、真の宝や非常に優れた人物のことも表します。
『掌』は「たなごころ」と読み、手のひらのことです。

禅語的には、かけがえのない宝(明珠)は遠くにあるのではなく、すでに自分の手の中(掌中)にある。かけがえのない宝=幸せ・喜び、は自分の中にある、という意味になります。
たとえ今の自分をダメだと思っていても、自分の奥には常に輝く可能性が眠っているという、希望の教えです。自分自身の命の尊さを知り、自分を愛すること。仏教では、この内なる仏性を引き出す修行を大切にするそうです。

「自分には特別何も無いと落ち込む必要はありません。どなたもこの自己の中に光輝く存在、宝を持っているのです。」は、大本山東福寺塔頭 霊源院塔頭の和尚様のお言葉です。

人生の選択の大きな節目に直面しているみんなには、忘れないでいてほしい四字熟語です。

(2026.2.28 談、補)


2025年12月23日火曜日

今日の軸:「忙中閑」

 今日の軸:「忙中閑(ぼうちゅうかん)」賛

年末になり、なんとなく気ぜわしくなってきました。
なぜ、年末がそんな気になるのでしょうか。
「別に新年に客がくるわけでもないから掃除なんていらないし、おせちなんて出来合いを買ってくればいいじゃないか」と思うかどうか、は個人の自由ではあるのですが、やはり、日本人として生まれ、日本という国に育ち、(たぶん)日本人的思考が身についている私たちは、先人たちが新年をどういう気持ちで迎えていたか、を知っておくのもいいのではないか、と思います。
「人は何故、新年を祝うのか」と言うような疑問を生成AIに聞いてみてください。伝統的なことのほかに、新年に対する日本と外国の考え方の違いなども知っておくといいでしょう。

さて、本題です。

「忙中閑」は日常的には「忙中閑あり」と言います。
「閑」はヒマではなく、「心が静かな、おだやかなこと」で「実際の時間」を意味します。
「忙しい最中にも、わずかながら心のゆとりある静かな時間がある」という意味で、「忙しいときにこそ、わずかでも心のゆとりや静かな時間を持つべき」というようにも変化します。

『賛』とは:
『讃』とも書きます。『賛』は、言葉・詞(ことば)を添えて助けることですが、絵+詞の形式のものを言います。
唐時代からの呼び方で、のちには、「題」とか「祓(はらえ)」とか呼ばれるようになったと言います。この表現方法は、中国での山水画のジャンルの一つの詩画一致の思想に基づき描かれたものからきていて、日本では奈良時代頃から使われてきました。後世、漢詩が和歌になってもOKになっていきます。
茶会では、本席に掛けられるよりも、待合(茶会に参加するときに、初めの通される部屋)などに掛けられる色紙で見られることが多く、カジュアルな感じですが、お正月などには本席で富士山の日の出とか宝船の絵に詞が添えられているものも掛けられたりします。

(2025.12.23 補)



2025年12月21日日曜日

今日の軸:「無事」

 「無事(ぶじ)」

12月になり、歳の終わりが近づいてきました。
今年を振り返り、来年への繋がりを考える…古人からの慣習と言えます。

12月によく使われる禅語として「無事」があります。
「無事」は普通の辞書を引くと「取り立てて言うほどの変わったことがないこと。ひまなこと。何もしないこと。」などとあります。「何もないことは佳いこと」と日常では肯定的に使っています。

茶席にこの言葉が掛けてあったら、「一年間無事で過ごせたことを寿ぎましょう。」ということと思ってOKですが…

ここでは、禅的解釈を少しだけ解説してみます。まだまだ修行中の身では、とても「無事」の境地にはたどり着けませんが。

「無事」は「むじ」とも読みます。むじ、のほうが禅語っぽい読み方と思ってしまいますが、どちらでもいいようです。

仏教で「無事」は、「煩悩やこだわりがなく、本来の仏としての自分に目覚め、心が穏やかで安定した状態」「何かが起こっても、普段と変わりのないように過ごせる境地」を意味します。

人生、良いことが起こっても、悪いことが起こっても、一喜一憂せずに平然と生きていける境地が「無事」ということです。
俗っぽく言えば、他人は自分のことをどう思っているか、とか、あいつには負けたくない、自分のほうが優れている、とか、今の生活でいいのだろうか、自分にはもっと向いている道があるんじゃないか、とか考えずに、自分の内面を見つめ、自分を信じる境地に到達できてこそ「無事」である、ということでしょう。

相変わらず、禅語は難しいですね。

(2025.12.21 補)

2025年5月29日木曜日

今日の軸:「葉々起清風」

 「葉々起清風(ようようせいふうをおこす)」

5月から7月に掛けられることが多い言葉です。

木々の葉が揺れて、さわやかな風を起こしている…というような、水彩画で書いてみたいような初夏の自然の風景を思い起こさせます。
・・・と、ここまでは、この字句だけからみる凡人の感想ですが。

実は、原典には、「為君葉々起清風」と「為君」が頭についています。この「為君」がつくと、「あれっ?単なる風景描写ではない?」と分かってくるのですが。

南宋時代の禅僧・虚堂智愚禅師(1185-1269)の遺した語録『虚堂緑』が出典です。

誰知三隱寂寥中 (たれ)か知る 三隠(さんいん)寂寥(せきりょう)の中(うち)
因話尋盟別鷲峯 話に因(より)て 盟(めい)を尋(つい)で 鷲峰(しゅうほう)に 別れんとするを
相送當門有脩竹 (あい) 送りて 門に 当たれば 修竹 有(あ)
爲君葉葉起清風 君が為に 葉葉(ようよう) 清風を 起こす

虚堂智愚禅師は、南宋時代の有名な禅僧です。(門下の大応国師は日本の臨済禅の礎です。)
その禅師のもとに三人の禅僧(衍・行鞏 ・如珙)がやってきました。三人は中国浙江省の天台山国清寺に旅立とうとして、虚堂禅師のいる鷲峯庵を訪ねてきたのです。国清寺は、伝説の禅僧、寒山・拾得(絵画にもよく描かれていて、東京博物館所蔵の『寒山拾得図軸』は重要文化財)と師の豊干和尚の三聖のいたところです。そこに修行に向かう三人の清らかな志に深く共鳴している虚堂禅師が門まで送りに来ると、一陣の風が吹き、そばの竹の葉が、さやさやと揺れました。揺れている竹の葉が、友人たちを送っているかのよう…

この詩は『送僧頌』として知られています。
「頌」「偈頌(げじゅ)」は、禅宗では、仏の功徳や教え、悟りの境地などを賛美する詩や歌のことで、経典の中や、禅僧などが詠んだ詩を指します。

ということから考えると、この頌は何を言わんとしているのでしょうか。
旅もままならない時代、もう会えないかもしれないという想いもあるが、清らかな志をもって、修行に向かう同志、シンクロする想い…
一陣の風、我が心に同調するように揺れる笹の葉…
言葉にできないせつない気持ちを代弁してくれているような…

もともと、禅語は以心伝心の世界。
修行もできてない凡人でも、その人なりに何かを感じることが大事です。
(2025.5.27 補)

2025年3月26日水曜日

今日の軸:「喫茶去」

「喫茶去(きっさこ)」

「和敬清寂」(利休さまの説く茶道の極意)⇒「一期一会」(すべての出会いの極意)⇒「喫茶去」(おもてなしの極意)と続く、茶の湯の基本的な概念です。

「どうぞ、お茶でも召し上がってくださいな」という意味で、茶席で好まれる禅語です。

ただ、禅宗では「お茶を飲みに行け、お茶を飲んで目を覚まして来い」という叱責する言葉だそうで…
『趙州喫茶去の公案』としてなかなか意味深い解釈を求められているものです。
  ※趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は唐代の禅僧

茶の湯初心者の私たちとしては、最終的にめざす境地として、「お茶でのおもてなしは、相手の地位や肩書にとらわれることなく、平等に接しなさい。」という心の在り方です。
亭主は『和敬』の心をもって「お茶を一服いかがですか」と言い、客のほうも変なことを言って辞退したり緊張していただいたりすることなく、『和敬』の心をもって素直に「いただきます。」とありがたくいただいて味わう…これがお茶の世界の醍醐味です。
注意!
「なんか図々しい人ね」と思われないように!!
それには…日頃が物をいいますね!!!

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【原典】『五灯会元、巻四、趙州従諗禅師』、『趙州録』、『碧巌録』
師問新到、曾到此間麼(し しんとうに とう、かつて すかんに いたるや。)
曰、曾到。(いわく、かつて いたる。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
又問僧。(また そうに とう。)
僧曰、不曾到。(そう いわく、かつて いたらず。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
後院主問曰、爲甚麼曾到也云喫茶去、不曾到也云喫茶去。のち、いんじゅ、とうて いわく、なんとしてか、かつて いたるにも また きっさこといい、かつて いたらざるにも また きっさこといいし。)
師召院主。(し、いんじゅ と めす。)
主應喏。(じゅ、おうだく す。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)

※ 「到此間麼」は、物理的な意味のココではなく、精神的な意味でのココ(つまり悟りの境地)を意味していることに気づくとわかりやすい、という解説がありました。
う~~~ん!
たしかに、そう考えると『喫茶去』は院主を叱責している言葉であることも、理解できます。
禅語は、難しいですね。

今日のもう一つの言葉(?)『円相』については、いずれ!
(2025.3.25 談)




2025年3月8日土曜日

今日の軸:「歳月不待人」

 「歳月不待人(さいげつ ひとを またず)」

12月や、年度の切れ目に床にかけられることが多い字句です。
学生でなくとも、師走ともなれば、あ~あ、今年ももう終わっちゃったなあ、という感慨とともにつぶやきたくなります。

一般的には、「歳月は待ってくれない。若いうちに勉学を励もう」「年月は人間の営みに関係なく、刻刻と過ぎてしまい、待ってはくれない。だから頑張ろう」「限られた時間を大切にしよう」というような、どちらかというと叱咤激励するような意味で使われます。

この字句を見て、同様な意味で「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という字句を思い浮かべてしまう人も多いことと思います。

ただ、本歌『陶淵明:雜詩其一』にある意味はちょっと違っているようで…
ちゃんと調べてみると…あれれれれ?
マ、イイジャナイデスカ!これもまたこれで楽しいですネ。一理ありますから!

【参考】
陶淵明:「雜詩 其一」 
 人生無根蔕 じんせいは こんていなく
 飄如陌上塵 ひょうとして はくじょうの ちりのごとし
 分散逐風轉 ぶんさんし かぜをおって てんじ
 此已非常身 これ すでに つねのみに あらず
 落地為兄弟 ちにおちて けいていと なる
 何必骨肉親 なんぞ かならずしも こつにくの しんのみ ならん
 得歓當作楽 かんをえては まさに たのしみを なすべし
 斗酒聚比鄰 としゅ ひりんを あつむ
 盛年不重来 せいねん かさねて きたらず
 一日難再晨 いちじつ ふたたび あした なりがたし
 及時當勉励 ときにおよんで まさに べんれいすべし
 歳月不待人 さいげつは ひとを またず

朱熹(朱子):「偶成」(近年は、作者は別人との説あり)
 少年易老學難成 しょうねん おいやすく がく なりがたし
 一寸光陰不可輕 いっすんのこういん かろんずべからず
 未覺池塘春草夢 いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ
 階前梧葉已秋聲 ごよう すでに しゅうせい
(2025.3.7 談・補)



2025年2月21日金曜日

今日の軸:「冬嶺秀孤松」

 「冬嶺秀孤松(とうれい こしょう ひいず」

如月(2月)・大寒のときに利用されることが多い禅語です。

「ほとんどの樹木が葉を落としている冬の嶺(みね)で、独り青々と葉を残している松が際立っていること」という景色を表しています。
これを禅語として解釈すると、松を仏様の教えとし、どんなものにも惑わされず、煩わされないことを説いています。人の生き方でも、人の心を苦しめる煩悩や欲望に流されることなく、平然と堂々と凛として生きていきたいものです。
単なる景色を謳ったものとしてではなく、その中から人生の教訓を学び取る…なかなか難しいですね。

原典は、陶淵明(とうえんめい))『四時歌』から
 春水満四澤:春水(しゅんすい)四澤(したく)に満ち
 夏雲多奇峰:夏雲(かうん)奇峰(きほう)多し
 秋月揚明輝:秋月(しゅうげつ)明輝(めいき)を揚げ
 冬嶺秀孤松:冬嶺(とうれい)孤松(こしょう)秀(ひい)ず

春水満四澤は、春爛漫のときに使われることも多い禅語です。

余談です。マツ科の松はほとんどが常緑樹ですが、カラマツ(唐松、落葉松とも書く)は、珍しく葉を落とします。日本原産です。この詩にようにはいきませんが、黄色く紅葉し、芽吹きもとてもきれいです。「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。」で始まる北原白秋の詩は有名ですし、日本の風景画家として有名な東山魁夷は、落葉松を題材とした作品を数多く残しています。陶淵明が日本人だったら、この詩はどう変わったでしょうか…。

(2025.3.20 談・補)

2025年2月10日月曜日

今日の軸:「和敬清寂」

 「和敬清寂(わけいせいじゃく)」

「和敬清寂」は、裏千家では、四規(しき)といい、茶道の根本精神を要約したものです。利休居士が提唱し、江戸時代前期から一般化されたと言われています。

『和』:茶道のすべての基本。茶会では主客双方で心を合わせて茶会を良いものにするためにまず「和」の心が必要です。
『敬』:お互いに尊敬しあうこと。客は亭主にへつらわず、亭主は客に奢らず。互いの思いやりを忘れないように。
『清』:きよらか。目に見える清らかさだけでなく、心の中も清らかであるように。
『寂』:何物にも流されず、どんなときにも動じない心。

・『清』は『静(しずか)』ではないことに注意してください。
・『寂』は、なかなか難しい概念です。『侘び寂び(わびさび)』の『寂』の字です。『わび茶』は、珠光~紹鴎~利休の流れで完成されました。その美意識の根底が『侘び』と『寂び』です。『侘び』は『わぶ』の名詞形で、本来は「気落ちする、心細く思う」というようなマイナスイメージの言葉でしたが、中世になると、不完全/不足の美しさを表現する言葉となります。また、『寂び』は「さぶ」という動詞の名詞形で「古くなる・色あせる」など、やはりマイナスイメージの言葉でしたが、古くなったものが枯れていき、その中に奥深いものや華麗なものが現れるという美意識を表すようになります。折しも中世の「人生の真実を表面的な美しさよりも内面的な充実に求める」という仏教思想に影響され、能、連歌や茶の湯にも精神性が求められていきました。このことから、『寂』は、表面的な美しさ・豊かさより心の美しさ・豊かさを目指す言葉、と解釈されています。
(2025.2.6 補)

茶の湯で使う扇子の意味