「一以貫之(いちいかんし/いちをもってこれをつらぬく)」
子曰わく、参や、吾が道は一以て之を貫く。 曽子曰わく、唯。 子出ず。 門人問うて曰わく、何の謂ぞや。 曽子曰わく、夫子の道は、忠恕のみ。 [意味] 孔子が言った、「参よ。私の人生は一つの使命で貫かれているのだ」と。 「はい、理解しております」と曽子(参のこと)は答えた。 孔子はその場を出て行った。 一緒にいたほかの門人が、「今の話はどういう意味ですか?」と聞いた。 曽子は、「先生の人生は忠恕の道で貫かれているのです」と答えた。 |
「お茶のお稽古 はじめの一歩 一歩ずつ」(お点前以外の話いろいろ)
子曰わく、参や、吾が道は一以て之を貫く。 曽子曰わく、唯。 子出ず。 門人問うて曰わく、何の謂ぞや。 曽子曰わく、夫子の道は、忠恕のみ。 [意味] 孔子が言った、「参よ。私の人生は一つの使命で貫かれているのだ」と。 「はい、理解しております」と曽子(参のこと)は答えた。 孔子はその場を出て行った。 一緒にいたほかの門人が、「今の話はどういう意味ですか?」と聞いた。 曽子は、「先生の人生は忠恕の道で貫かれているのです」と答えた。 |
この場合の翠は、松の木をあらわし、長寿をお祝いする席などで使われる言葉です。
が!
禅語では、『松樹千年翠 不入時人意』と続いています。
この対句の部分は『ときのひとにいらず』と読み、『ときのひと』つまり『世の中で注目される人』には入らない⇒世の中で目立たない人⇒注目されていない、となります。
で、どうなるか、と言うと…
松の木は、千年(長い時間のこと)の時を経ても、変わらず緑を保っているが、人々はその背景にある目立たない地道な努力があることを、見逃してはならない、という意味です。
『松柏千年靑』も同じ意味です。こちらのほうが先らしい(?)。
もともとは、南宋時代の禅僧・石田法薫(1171~1245)の法語であり、禅語集『続伝灯録』には
松柏千年靑 松柏(しょうはく) 千年(せんねん)の 青(あお)
不入時人意 時人(じじん)の 意(い)に 入(い)らず
牡丹一日紅 牡丹(ぼたん) 一日(いちじつ)の 紅(くれない)
滿城公子醉 満城(まんじょう)の 公子(こうし) 酔(よ)う
とあります。後半の『牡丹云々』は、『牡丹のような一日しか咲かない紅の(華美な)花には、城の中の貴人の誰もが心奪われる』となりますが…
だから、何を言いたいのかな?
禅語の意味するところは、難しいの一言につきます。私たちは禅の修行をしていませんから、悟りを開いた禅のお坊さまたちの解釈を聞くに限ります。
今回の『松樹千年翠』で感じ入った解説は、
「この禅語は、千年の寿を寿ぐだけの言葉ではありません。時の長さではないのです。どのような時にも驕らず、屈せず、ただひたすら自分の道を行く、変わらぬ道心を讃える言葉です。・・・どんなことであっても、大切なのは、次の一歩。この次の一歩を全身全霊で続けることが、千年の寿に相応しいことだ、千年の寿に負けない大切な修行の魂なのだ、ということを言っているのです。」
というお坊様の言葉でした。
参考:
https://note.com/myoukishuken/n/n3454ae06c3c7
(2025.6.10 補)
(仏教的には、「差別が存在する」という表現をします。しかし、『差別』という言葉は、現代の辞書や条例で、「差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である」というような定義をされていて、マイナスイメージの言葉と捉えられるので注意が必要です。仏教でいう『差別』は『違いがある』ことだけを言っていると言葉と解釈してください。)