2025年6月9日月曜日

「正座」を修行する

 

 「『正座』を修行する~「正座ができない」若い人たちへ」

せっかく、茶の湯に興味を持っているのに、正座ができないばっかりに、見ているしかない…というのは、もったいないので、正座に挑戦いたしましょう。

歳を取ってきても、正座がだんだんできなくなるのは、世の常…ですが、「100歳になっても筋肉はつく」のも事実なので、若ければ、もっとなんとかなるのではないか、と目標を定め、「お茶をやりたい」という強い思いを持ち続けることが大事です。(実体験から確信しています!)

【茶道での座り方(正座)】
① 膝と膝の間に、男性は握りこぶし2つ/女性は1つの空間を取る。
② できたら、足の親指どうしが重なるようにつける。
③ 踵(かかと)と踵の間にお尻を入れる。
(踵の上にすべての体重をかけると、正座は長続きせず、しびれる。)

イメージとしてはこんな感じです。
【訓練の仕方】
上のような体勢が取れたら、お尻をゆらし、右足と左足に交互に体重をかける。
(はじめは1分もできなくても、毎日少しずつ1か月くらいは続けてみましょう。)

【しびれたら】
・いつもは、左足と右足の親指を重ねるくらいだが、それを脛(すね)の中心あたりまで、交差させ、体重をかけてみる。
・しばらく、跪坐(きざ)でしびれが取れるまで、待つ。
 跪坐:両膝を床につけたまま、足の爪先を立て(畳につけて折り曲げる)、踵(かかと)を揃え、踵の上に腰をおろして、しばらく体重をかける。

【世の中で正座ができない人に勧めている方法】
YouTubeには、「正座ができるようになる」方法がたくさん紹介されています。その中で、自分に合ったものが見つかればいいのですが、ほとんどの紹介者は、正座ができている人なので、紹介されている筋トレとかが、本当に正座のできない人には、つらくてつらくてどうにも使えない、というものが散見されます。

基本的には、
① 足首の柔軟性(足の親指どうしを重ねるためと、跪坐のため)
② ふくらはぎの柔軟性(一番体重がかかるので、血行が悪くなるため)
③ 膝の前後の筋肉の柔軟性
④ 股関節の柔軟性
の4つが大事です。

特に、足首の回りには、小さい骨がたくさんあり、それのすべてに筋肉がついているので、あらゆる角度に動かして柔軟にしておかないとなりません。長く正座をして立つと、足首が固まってしまい、バランスがとれなくなり、コケることがありますので、柔軟性をつけましょう。一番簡単な方法は、手で足先をもって足首をよく回しておくだけでもOKです。

「正座すると膝が痛い」という自覚がありますが、膝というより、ふくらはぎとももの筋肉をつけて、柔らかくすると、膝の痛みは軽減します。

股関節は、正座には、あまり関係なさそうに感じてしまいがちですが、正座をすると、一番最初に血行不良を起こして、足に血が行かなくなり、しびれの原因を作ります。股関節を開くことは日常の生活では、あまりないので、重点的にする必要があります。柔軟にしておくと、血行が改善されて、正座を続けることができます。

自分なりに考えた筋トレでもOKですので、①~④に効きそうな運動を工夫してみてください。

正座に関するおすすめの動画
(2025.5.27 補)






2025年5月29日木曜日

今日の軸:「葉々起清風」

 「葉々起清風(ようようせいふうをおこす)」

5月から7月に掛けられることが多い言葉です。

木々の葉が揺れて、さわやかな風を起こしている…というような、水彩画で書いてみたいような初夏の自然の風景を思い起こさせます。
・・・と、ここまでは、この字句だけからみる凡人の感想ですが。

実は、原典には、「為君葉々起清風」と「為君」が頭についています。この「為君」がつくと、「あれっ?単なる風景描写ではない?」と分かってくるのですが。

南宋時代の禅僧・虚堂智愚禅師(1185-1269)の遺した語録『虚堂緑』が出典です。

誰知三隱寂寥中 誰(たれ)か知る 三隠(さんいん)寂寥(せきりょう)の中(うち)
因話尋盟別鷲峯 話に因(より)て 盟(めい)を尋(つい)で 鷲峰(しゅうほう)に 別れんとするを
相送當門有脩竹 相(あい) 送りて 門に 当たれば 修竹 有(あ)り
爲君葉葉起清風 君が為に 葉葉(ようよう) 清風を 起こす

虚堂智愚禅師は、南宋時代の有名な禅僧です。(門下の大応国師は日本の臨済禅の礎です。)
その禅師のもとに三人の禅僧(衍・行鞏 ・如珙)がやってきました。三人は中国浙江省の天台山国清寺に旅立とうとして、虚堂禅師のいる鷲峯庵を訪ねてきたのです。国清寺は、伝説の禅僧、寒山・拾得(絵画にもよく描かれていて、東京博物館所蔵の『寒山拾得図軸』は重要文化財)と師の豊干和尚の三聖のいたところです。そこに修行に向かう三人の清らかな志に深く共鳴している虚堂禅師が門まで送りに来ると、一陣の風が吹き、そばの竹の葉が、さやさやと揺れました。揺れている竹の葉が、友人たちを送っているかのよう…

この詩は『送僧頌』として知られています。
「頌」「偈頌(げじゅ)」は、禅宗では、仏の功徳や教え、悟りの境地などを賛美する詩や歌のことで、経典の中や、禅僧などが詠んだ詩を指します。

ということから考えると、この頌は何を言わんとしているのでしょうか。
旅もままならない時代、もう会えないかもしれないという想いもあるが、清らかな志をもって、修行に向かう同志、シンクロする想い…
一陣の風、我が心に同調するように揺れる笹の葉…
言葉にできないせつない気持ちを代弁してくれているような…

もともと、禅語は以心伝心の世界。
修行もできてない凡人でも、その人なりに何かを感じることが大事です。
(2025.5.27 補)

2025年5月6日火曜日

今日の軸:「春色無高下」

「春色無高下(しゅんしょくこうげなし)」

春はすべてのものに平等に降り注いでいる、という情景を詠んでいます。
(「だから何?」とつっこみたくなりますね!)

原典は、『圜悟語録』。実は、この句には、対句があります。

 春色高下無し(しゅんしょくこうげなし)
 華枝自短長(かし おのずから たんちょう)

対句とともに、この字句は何を言いたいのか、禅的な解釈を紹介します。

前半は、「春の日差しが山や川、花々や木々、すべての動物(お金持ちにも貧乏な人にも、偉い人にも偉くない人にも)、すべてのものに平等に降り注いでいる。」という 万物平等 を説いています。
後半は、「春の日差しが、平等に降り注いていても、花の枝は、短いものも長いものもあって差があり、自然と長短が出来てきて、個性が存在する。」という現実を説いています。
(仏教的には、「差別が存在する」という表現をします。しかし、『差別』という言葉は、現代の辞書や条例で、「差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である」というような定義をされていて、マイナスイメージの言葉と捉えられるので注意が必要です。仏教でいう『差別』は『違いがある』ことだけを言っていると言葉と解釈してください。)

仏教の説く『平等即差別、差別即平等』の根本思想を具現化している言葉です。つまりは、『万物はみな平等だが、その中では違いも個性も存在する。それもそれで大事。両方の概念を認めてバランスを取った考え方をしよう』ということになります。

ネット上には、この字句についての解釈が散見されます。解釈の微妙な違いもあり、比べて読んでいると、訳が分からなくなってきたりしますが、修行中の一般人の私たちとしては、『華枝自短長』という心で対応していきまょう。

【参考サイト】
(2025.4.26 談)


2025年3月26日水曜日

茶碗:茶碗の部分の名称

 「茶碗の部分の名称」

お茶碗は、いろいろな形がありますが、その形を鑑賞するにあたって、ポイントとなるお茶碗の部分の名称です。
  1. 口縁・口造り:端反口、蛤口、直口、玉縁、姥口、樋口などいろいろ。
  2. 見込み:底から中ほどまでの広さ。広いほうが点てやすい。目跡(めあと。茶碗を重ねて焼くときに、茶碗の間に挟む砂粒の跡)があったりする。
  3. 茶溜まり:内側の底の真ん中のところの丸いくぼみ。「ロクロで作るとき、見込みの一番底(『底切れ』)は、粘土の乾燥時の収縮に追従できない中心部分がパックリと割れる場合があり、それを防止するために粘土に圧力をかけて締める作業を行う。通常は少し凹んだ形になる。手作り茶碗では、腰の部分を作るときに手で抱え込むので、底部分が自然に窪んだ形状になる。」という制作上の必然性からできたもの。「茶を飲んだあと、どうしても飲みきれないわずかな茶がここに溜まるので、飲み終わったあとの茶碗もきれいに見せるため必要」と言う人もいるが、それは結果論。茶溜まりが深すぎると、うまく点てられない気がするが、経験できる茶碗に出会ってないので…何とも言えない。
  4. 高台:袋高台、ベタ高台、碁笥底、円座高台、竹節高台などいろいろ。底の形状も切高台(きりこうだい)、三日月高台、四方高台、割高台(わりこうだい)などいろいろ。
  5. 兜巾:ヘラで高台を削るときにできる尖った部分。
  6. 高台内・高台際:「梅花皮(かいらぎ)」(井戸茶碗などで、高台の近くに釉薬が粒状に縮れた状態で残ったもの)や土が削れるときにできる「縮緬皺(ちりめんじわ)」などがあるのもある。
  7. 茶碗の形:碗形、井戸形、天目形、沓形、片口形、筆洗形、枡形、場盥形などいろいろ。
  8. 畳付:焼成時に釉薬がくっつかないようにするための目跡(へこんでいる)があったりする。
  9. 胴:貫入(釉薬の表面に入る細かいひび割れ)があったり、伊羅保(肌がざらざら)だったり、釉薬が思わぬ景色を見せてくれたり、素敵な絵が描かれてあったり、窯変していたり…と観賞するポイント大。
(2025.3.25 補)

今日の軸:「喫茶去」

「喫茶去(きっさこ)」

「和敬清寂」(利休さまの説く茶道の極意)⇒「一期一会」(すべての出会いの極意)⇒「喫茶去」(おもてなしの極意)と続く、茶の湯の基本的な概念です。

「どうぞ、お茶でも召し上がってくださいな」という意味で、茶席で好まれる禅語です。

ただ、禅宗では「お茶を飲みに行け、お茶を飲んで目を覚まして来い」という叱責する言葉だそうで…
『趙州喫茶去の公案』としてなかなか意味深い解釈を求められているものです。
  ※趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は唐代の禅僧

茶の湯初心者の私たちとしては、最終的にめざす境地として、「お茶でのおもてなしは、相手の地位や肩書にとらわれることなく、平等に接しなさい。」という心の在り方です。
亭主は『和敬』の心をもって「お茶を一服いかがですか」と言い、客のほうも変なことを言って辞退したり緊張していただいたりすることなく、『和敬』の心をもって素直に「いただきます。」とありがたくいただいて味わう…これがお茶の世界の醍醐味です。
注意!
「なんか図々しい人ね」と思われないように!!
それには…日頃が物をいいますね!!!

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【原典】『五灯会元、巻四、趙州従諗禅師』、『趙州録』、『碧巌録』
師問新到、曾到此間麼。(し しんとうに とう、かつて すかんに いたるや。)
曰、曾到。(いわく、かつて いたる。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
又問僧。(また そうに とう。)
僧曰、不曾到。(そう いわく、かつて いたらず。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
後院主問曰、爲甚麼曾到也云喫茶去、不曾到也云喫茶去。(のち、いんじゅ、とうて いわく、なんとしてか、かつて いたるにも また きっさこといい、かつて いたらざるにも また きっさこといいし。)
師召院主。(し、いんじゅ と めす。)
主應喏。(じゅ、おうだく す。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)

※ 「到此間麼」は、物理的な意味のココではなく、精神的な意味でのココ(つまり悟りの境地)を意味していることに気づくとわかりやすい、という解説がありました。
う~~~ん!
たしかに、そう考えると『喫茶去』は院主を叱責している言葉であることも、理解できます。
禅語は、難しいですね。

今日のもう一つの言葉(?)『円相』については、いずれ!
(2025.3.25 談)




2025年3月10日月曜日

お濃茶は

  【お濃茶は】

『茶事』は、亭主が親しい人を招いて行われる茶会で、おもてなし文化の究極のものです。
茶室という特別な空間に入っていただき、炭手前をしてお湯を沸かし、お食事をしていただき、お菓子を召し上がっていただいたあと、おいしい一服の濃茶を差し上げる、その余韻を楽しんでいただくために薄茶を差し上げる、という一連の過程が進行します。(4時間くらいかかります。)その日の茶室の設え・道具の選択、懐石料理などは、この『おいしい一杯の濃茶を気持ちよく飲んでいただく』ためのものと言っても決して過言ではありません。
また、お茶事は、あくまで、正客がメインのお客であって、その日のテーマや設えは正客に向けてのもの、というのが基本です。

このお茶事というイベントの中心となる『お濃茶』ですが、市井のカフェ・喫茶店や公園や神社仏閣でのお呈茶(お茶をさしあげること)では、まず経験することができません。
それでも、都内では浅草などに数は少ないですが、濃茶が飲める茶房やカフェがあるらしいので、もし、見つけたら、入ってみるといいでしょう。そこでは、面倒な作法とかはなしに、お濃茶を楽しむことができるはずです。

濃茶を出すカフェが圧倒的に少ないのは、おいしく濃茶を練る(薄茶は点てるという)のに、結構な技術が必要なのが原因かと思います。使うお抹茶も違います。薄茶は一人前2g(茶杓1杓半)ですが、濃茶は一人分として4g(茶杓3杓)が基準です。使う茶筅も本来は違うのですが、最近はそこまで明確に分けて使う…機会(?)は少ないです?!

お菓子も違います。濃茶のほうは主菓子といいます。練り切り、こなし、饅頭というような種類のお菓子を”縁高(ふちだか)”という重ねられる箱に、一人前として一段に一種1個ずつを入れるのが本来の形です。「こんな大きな箱にお菓子ひとつとは、いくらなんてもおかしいんじゃないか」と思いたくなりますが、上のほうのお点前になると、お菓子は一人前として種類の違う物が3つとか5つとか出ます。そのためにはちょうどいい器の大きさなのでしょう。大寄せのお茶会などで、一人ひとつの場合、一段に同じお菓子を複数並べることもあります。いずれにしても、お作法がありますので、そのうち、しっかり体得しましょう。

一番大事なこと:
お濃茶をいただくとき、心得ておかないといけない一番大事なことは、一盌のお濃茶を客全員(高々5人まで)で少しずつ飲むことです。「おもあい(思相)でいただく」と言います。よく「濃茶は三口で飲む」と言われますが、そんな感じです。そのための作法もあり、これもそのうち、しっかり体得しましょう。
もし、体得しないうちに、大寄せのお茶会に行って、濃茶がでてしまったら…お隣の方のやりようを、しっかり真似をして、失礼にならないようにしてください。それも難しかったら「はじめてなので教えてください。」と素直に聞きましょう。お茶人は気配りできる人たちですから、教えてくださるはずです。

2025.3.7 談・補

2025年3月8日土曜日

今日の軸:「歳月不待人」

 「歳月不待人(さいげつ ひとを またず)」

12月や、年度の切れ目に床にかけられることが多い字句です。
学生でなくとも、師走ともなれば、あ~あ、今年ももう終わっちゃったなあ、という感慨とともにつぶやきたくなります。

一般的には、「歳月は待ってくれない。若いうちに勉学を励もう」「年月は人間の営みに関係なく、刻刻と過ぎてしまい、待ってはくれない。だから頑張ろう」「限られた時間を大切にしよう」というような、どちらかというと叱咤激励するような意味で使われます。

この字句を見て、同様な意味で「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という字句を思い浮かべてしまう人も多いことと思います。

ただ、本歌『陶淵明:雜詩其一』にある意味はちょっと違っているようで…
ちゃんと調べてみると…あれれれれ?
マ、イイジャナイデスカ!これもまたこれで楽しいですネ。一理ありますから!

【参考】
陶淵明:「雜詩 其一」 
 人生無根蔕 じんせいは こんていなく
 飄如陌上塵 ひょうとして はくじょうの ちりのごとし
 分散逐風轉 ぶんさんし かぜをおって てんじ
 此已非常身 これ すでに つねのみに あらず
 落地為兄弟 ちにおちて けいていと なる
 何必骨肉親 なんぞ かならずしも こつにくの しんのみ ならん
 得歓當作楽 かんをえては まさに たのしみを なすべし
 斗酒聚比鄰 としゅ ひりんを あつむ
 盛年不重来 せいねん かさねて きたらず
 一日難再晨 いちじつ ふたたび あした なりがたし
 及時當勉励 ときにおよんで まさに べんれいすべし
 歳月不待人 さいげつは ひとを またず

朱熹(朱子):「偶成」(近年は、作者は別人との説あり)
 少年易老學難成 しょうねん おいやすく がく なりがたし
 一寸光陰不可輕 いっすんのこういん かろんずべからず
 未覺池塘春草夢 いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ
 階前梧葉已秋聲 ごよう すでに しゅうせい
(2025.3.7 談・補)



茶の湯で使う扇子の意味