2025年7月6日日曜日
今日の軸:「星河清涼風」
2025年6月25日水曜日
今日の軸:「一以貫之」
「一以貫之(いちいかんし/いちをもってこれをつらぬく)」
子曰わく、参や、吾が道は一以て之を貫く。 曽子曰わく、唯。 子出ず。 門人問うて曰わく、何の謂ぞや。 曽子曰わく、夫子の道は、忠恕のみ。 [意味] 孔子が言った、「参よ。私の人生は一つの使命で貫かれているのだ」と。 「はい、理解しております」と曽子(参のこと)は答えた。 孔子はその場を出て行った。 一緒にいたほかの門人が、「今の話はどういう意味ですか?」と聞いた。 曽子は、「先生の人生は忠恕の道で貫かれているのです」と答えた。 |
「茶の湯」と「茶道」どう違う?
「茶の湯」と「茶道」どう違う?
視点としては、文化的で、やや古風。
お茶を点てる行為を通して、精神性を修養。
礼儀作法を身につける『道』であって、体系化されたもの。哲学的。
この言葉は、利休居士の言葉として伝えられていて、『利休道歌(利休百首)』の中におさめられています。
「歌」が文化の中心を占めていた平安時代には「数寄」は「歌道」を表していたのが、歌道が廃れるにつれ、「茶の数寄」を表すようになっていったという背景から、利休が茶事に使う座敷を数寄屋と名付け、数寄道に繋がっていったのかもしれません。
特に「名物(茶道具として特別な物)」に関心を寄せた人がたくさん出現します。財閥出身者や個人資産家が、日本国外に流出した美術品など買い取り、大規模な茶会を開催したりしました。現在、価値ある茶道具を所蔵する美術館がたくさんありますが、その貴重な品々を収集した人たち、益田鈍翁、原三渓、松永耳庵、根津青山(嘉一郎)、小林逸翁(一三)、高橋箒庵、畠山即翁(一清)、五島慶太、細川護立、大原孫三郎、川喜田半泥子、松下幸之助という方たちがいたからこそ、現代の我々は、古い時代からの貴重な茶道具を鑑賞できるのです。
2025年6月11日水曜日
今日の軸:「千年翠」
今日の軸:「千年翠(せんねんのみどり)」
この場合の翠は、松の木をあらわし、長寿をお祝いする席などで使われる言葉です。
が!
禅語では、『松樹千年翠 不入時人意』と続いています。
この対句の部分は『ときのひとにいらず』と読み、『ときのひと』つまり『世の中で注目される人』には入らない⇒世の中で目立たない人⇒注目されていない、となります。
で、どうなるか、と言うと…
松の木は、千年(長い時間のこと)の時を経ても、変わらず緑を保っているが、人々はその背景にある目立たない地道な努力があることを、見逃してはならない、という意味です。
『松柏千年靑』も同じ意味です。こちらのほうが先らしい(?)。
もともとは、南宋時代の禅僧・石田法薫(1171~1245)の法語であり、禅語集『続伝灯録』には
松柏千年靑 松柏(しょうはく) 千年(せんねん)の 青(あお)
不入時人意 時人(じじん)の 意(い)に 入(い)らず
牡丹一日紅 牡丹(ぼたん) 一日(いちじつ)の 紅(くれない)
滿城公子醉 満城(まんじょう)の 公子(こうし) 酔(よ)う
とあります。後半の『牡丹云々』は、『牡丹のような一日しか咲かない紅の(華美な)花には、城の中の貴人の誰もが心奪われる』となりますが…
だから、何を言いたいのかな?
禅語の意味するところは、難しいの一言につきます。私たちは禅の修行をしていませんから、悟りを開いた禅のお坊さまたちの解釈を聞くに限ります。
今回の『松樹千年翠』で感じ入った解説は、
「この禅語は、千年の寿を寿ぐだけの言葉ではありません。時の長さではないのです。どのような時にも驕らず、屈せず、ただひたすら自分の道を行く、変わらぬ道心を讃える言葉です。・・・どんなことであっても、大切なのは、次の一歩。この次の一歩を全身全霊で続けることが、千年の寿に相応しいことだ、千年の寿に負けない大切な修行の魂なのだ、ということを言っているのです。」
というお坊様の言葉でした。
参考:
https://note.com/myoukishuken/n/n3454ae06c3c7
(2025.6.10 補)
2025年6月10日火曜日
花入:籠いろいろ
花入(はないれ):籠いろいろ
「花は野にあるやうに」
「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝、かろくいけたるがよし。勿論、花によりてふわふわといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いや也。四畳半にも成りては、花により二色もゆるすべしとぞ。」
という言葉を遺されていらっしゃるので、四畳半以下の小間では「一種二枝」で究極の自然体をめざすことになります。
いろいろな好み(デザインが微妙に違う)のものがある。
梶の葉を蓋代わりにして水指に用いる。
唐物籠を写し、小さな耳をつけたのではないかともいわれるす。
利休⇒小庵⇒宗旦⇒山田宗徧 のものが有名。
立鼓籠
2025年6月9日月曜日
「正座」を修行する
「『正座』を修行する~「正座ができない」若い人たちへ」
(踵の上にすべての体重をかけると、正座は長続きせず、しびれる。)
跪坐:両膝を床につけたまま、足の爪先を立て(畳につけて折り曲げる)、踵(かかと)を揃え、踵の上に腰をおろして、しばらく体重をかける。
2025年5月29日木曜日
今日の軸:「葉々起清風」
「葉々起清風(ようようせいふうをおこす)」
その禅師のもとに三人の禅僧(衍・行鞏 ・如珙)がやってきました。三人は中国浙江省の天台山国清寺に旅立とうとして、虚堂禅師のいる鷲峯庵を訪ねてきたのです。国清寺は、伝説の禅僧、寒山・拾得(絵画にもよく描かれていて、東京博物館所蔵の『寒山拾得図軸』は重要文化財)と師の豊干和尚の三聖のいたところです。そこに修行に向かう三人の清らかな志に深く共鳴している虚堂禅師が門まで送りに来ると、一陣の風が吹き、そばの竹の葉が、さやさやと揺れました。揺れている竹の葉が、友人たちを送っているかのよう…
2025年5月6日火曜日
今日の軸:「春色無高下」
「春色無高下(しゅんしょくこうげなし)」
(仏教的には、「差別が存在する」という表現をします。しかし、『差別』という言葉は、現代の辞書や条例で、「差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である」というような定義をされていて、マイナスイメージの言葉と捉えられるので注意が必要です。仏教でいう『差別』は『違いがある』ことだけを言っていると言葉と解釈してください。)
2025年3月26日水曜日
茶碗:茶碗の部分の名称
「茶碗の部分の名称」
- 口縁・口造り:端反口、蛤口、直口、玉縁、姥口、樋口などいろいろ。
- 見込み:底から中ほどまでの広さ。広いほうが点てやすい。目跡(めあと。茶碗を重ねて焼くときに、茶碗の間に挟む砂粒の跡)があったりする。
- 茶溜まり:内側の底の真ん中のところの丸いくぼみ。「ロクロで作るとき、見込みの一番底(『底切れ』)は、粘土の乾燥時の収縮に追従できない中心部分がパックリと割れる場合があり、それを防止するために粘土に圧力をかけて締める作業を行う。通常は少し凹んだ形になる。手作り茶碗では、腰の部分を作るときに手で抱え込むので、底部分が自然に窪んだ形状になる。」という制作上の必然性からできたもの。「茶を飲んだあと、どうしても飲みきれないわずかな茶がここに溜まるので、飲み終わったあとの茶碗もきれいに見せるため必要」と言う人もいるが、それは結果論。茶溜まりが深すぎると、うまく点てられない気がするが、経験できる茶碗に出会ってないので…何とも言えない。
- 高台:袋高台、ベタ高台、碁笥底、円座高台、竹節高台などいろいろ。底の形状も切高台(きりこうだい)、三日月高台、四方高台、割高台(わりこうだい)などいろいろ。
- 兜巾:ヘラで高台を削るときにできる尖った部分。
- 高台内・高台際:「梅花皮(かいらぎ)」(井戸茶碗などで、高台の近くに釉薬が粒状に縮れた状態で残ったもの)や土が削れるときにできる「縮緬皺(ちりめんじわ)」などがあるのもある。
- 茶碗の形:碗形、井戸形、天目形、沓形、片口形、筆洗形、枡形、場盥形などいろいろ。
- 畳付:焼成時に釉薬がくっつかないようにするための目跡(へこんでいる)があったりする。
- 胴:貫入(釉薬の表面に入る細かいひび割れ)があったり、伊羅保(肌がざらざら)だったり、釉薬が思わぬ景色を見せてくれたり、素敵な絵が描かれてあったり、窯変していたり…と観賞するポイント大。
今日の軸:「喫茶去」
「喫茶去(きっさこ)」
亭主は『和敬』の心をもって「お茶を一服いかがですか」と言い、客のほうも変なことを言って辞退したり緊張していただいたりすることなく、『和敬』の心をもって素直に「いただきます。」とありがたくいただいて味わう…これがお茶の世界の醍醐味です。
う~~~ん!
たしかに、そう考えると『喫茶去』は院主を叱責している言葉であることも、理解できます。
禅語は、難しいですね。
2025年3月10日月曜日
お濃茶は
【お濃茶は】
『茶事』は、亭主が親しい人を招いて行われる茶会で、おもてなし文化の究極のものです。
茶室という特別な空間に入っていただき、炭手前をしてお湯を沸かし、お食事をしていただき、お菓子を召し上がっていただいたあと、おいしい一服の濃茶を差し上げる、その余韻を楽しんでいただくために薄茶を差し上げる、という一連の過程が進行します。(4時間くらいかかります。)その日の茶室の設え・道具の選択、懐石料理などは、この『おいしい一杯の濃茶を気持ちよく飲んでいただく』ためのものと言っても決して過言ではありません。
また、お茶事は、あくまで、正客がメインのお客であって、その日のテーマや設えは正客に向けてのもの、というのが基本です。
このお茶事というイベントの中心となる『お濃茶』ですが、市井のカフェ・喫茶店や公園や神社仏閣でのお呈茶(お茶をさしあげること)では、まず経験することができません。
それでも、都内では浅草などに数は少ないですが、濃茶が飲める茶房やカフェがあるらしいので、もし、見つけたら、入ってみるといいでしょう。そこでは、面倒な作法とかはなしに、お濃茶を楽しむことができるはずです。
濃茶を出すカフェが圧倒的に少ないのは、おいしく濃茶を練る(薄茶は点てるという)のに、結構な技術が必要なのが原因かと思います。使うお抹茶も違います。薄茶は一人前2g(茶杓1杓半)ですが、濃茶は一人分として4g(茶杓3杓)が基準です。使う茶筅も本来は違うのですが、最近はそこまで明確に分けて使う…機会(?)は少ないです?!
お菓子も違います。濃茶のほうは主菓子といいます。練り切り、こなし、饅頭というような種類のお菓子を”縁高(ふちだか)”という重ねられる箱に、一人前として一段に一種1個ずつを入れるのが本来の形です。「こんな大きな箱にお菓子ひとつとは、いくらなんてもおかしいんじゃないか」と思いたくなりますが、上のほうのお点前になると、お菓子は一人前として種類の違う物が3つとか5つとか出ます。そのためにはちょうどいい器の大きさなのでしょう。大寄せのお茶会などで、一人ひとつの場合、一段に同じお菓子を複数並べることもあります。いずれにしても、お作法がありますので、そのうち、しっかり体得しましょう。
一番大事なこと:
お濃茶をいただくとき、心得ておかないといけない一番大事なことは、一盌のお濃茶を客全員(高々5人まで)で少しずつ飲むことです。「おもあい(思相)でいただく」と言います。よく「濃茶は三口で飲む」と言われますが、そんな感じです。そのための作法もあり、これもそのうち、しっかり体得しましょう。
もし、体得しないうちに、大寄せのお茶会に行って、濃茶がでてしまったら…お隣の方のやりようを、しっかり真似をして、失礼にならないようにしてください。それも難しかったら「はじめてなので教えてください。」と素直に聞きましょう。お茶人は気配りできる人たちですから、教えてくださるはずです。
2025.3.7 談・補
2025年3月8日土曜日
今日の軸:「歳月不待人」
「歳月不待人(さいげつ ひとを またず)」
一般的には、「歳月は待ってくれない。若いうちに勉学を励もう」「年月は人間の営みに関係なく、刻刻と過ぎてしまい、待ってはくれない。だから頑張ろう」「限られた時間を大切にしよう」というような、どちらかというと叱咤激励するような意味で使われます。
この字句を見て、同様な意味で「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という字句を思い浮かべてしまう人も多いことと思います。
ただ、本歌『陶淵明:雜詩其一』にある意味はちょっと違っているようで…
ちゃんと調べてみると…あれれれれ?
マ、イイジャナイデスカ!これもまたこれで楽しいですネ。一理ありますから!
陶淵明:「雜詩 其一」
人生無根蔕 じんせいは こんていなく
飄如陌上塵 ひょうとして はくじょうの ちりのごとし
分散逐風轉 ぶんさんし かぜをおって てんじ
此已非常身 これ すでに つねのみに あらず
落地為兄弟 ちにおちて けいていと なる
何必骨肉親 なんぞ かならずしも こつにくの しんのみ ならん
得歓當作楽 かんをえては まさに たのしみを なすべし
斗酒聚比鄰 としゅ ひりんを あつむ
盛年不重来 せいねん かさねて きたらず
一日難再晨 いちじつ ふたたび あした なりがたし
及時當勉励 ときにおよんで まさに べんれいすべし
歳月不待人 さいげつは ひとを またず
朱熹(朱子):「偶成」(近年は、作者は別人との説あり)
少年易老學難成 しょうねん おいやすく がく なりがたし
一寸光陰不可輕 いっすんのこういん かろんずべからず
未覺池塘春草夢 いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ
階前梧葉已秋聲 ごよう すでに しゅうせい
2025年2月21日金曜日
焼物:「交趾焼」
「交趾焼(こうちやき)」
華やかな色合いで細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物です。明代後期に中国で作られた三彩陶器です。
ベトナムのコーチシナ(交趾支那)との交趾貿易船でもたらされたことに由来する名前で、ベトナムの名前が使われていますが、実際の産地は中国福建省南部の漳州ということが最近分かったそうです。
日本では、江戸時代に京都から発展。京焼・清水焼を代表する技法としての交趾焼が有名になりました。茶の湯が江戸時代に入り、次第に華やかなものが好まれていった時代背景に合致したといえましょう。茶の湯はすべてわび茶、というわけではないこともなんとなく理解できますね。
成形された生地を素焼きまたは高温で焼き、次に交趾釉を施釉してから、低火度焼成して完成となるそうです。下絵で模様を作る技法として、 彫刻、盛り上げ、椎泥、イッチン、貼付け、線刻、泥化粧など。
黄交趾、紫交趾、緑交趾というように主に使われている色を付けて呼ばれます。
【言葉(参考)】
・椎泥:椎木(しいたき)の樹皮に含まれるタンニンを染料とする。
・一珍/一陳(イッチン):スポイト状の道具を使って盛り上げた線文や模様を描く。
今日の軸:「冬嶺秀孤松」
「冬嶺秀孤松(とうれい こしょう ひいず」
如月(2月)・大寒のときに利用されることが多い禅語です。
「ほとんどの樹木が葉を落としている冬の嶺(みね)で、独り青々と葉を残している松が際立っていること」という景色を表しています。
これを禅語として解釈すると、松を仏様の教えとし、どんなものにも惑わされず、煩わされないことを説いています。人の生き方でも、人の心を苦しめる煩悩や欲望に流されることなく、平然と堂々と凛として生きていきたいものです。
単なる景色を謳ったものとしてではなく、その中から人生の教訓を学び取る…なかなか難しいですね。
原典は、陶淵明(とうえんめい))『四時歌』から
春水満四澤:春水(しゅんすい)四澤(したく)に満ち
夏雲多奇峰:夏雲(かうん)奇峰(きほう)多し
秋月揚明輝:秋月(しゅうげつ)明輝(めいき)を揚げ
冬嶺秀孤松:冬嶺(とうれい)孤松(こしょう)秀(ひい)ず
春水満四澤は、春爛漫のときに使われることも多い禅語です。
余談です。マツ科の松はほとんどが常緑樹ですが、カラマツ(唐松、落葉松とも書く)は、珍しく葉を落とします。日本原産です。この詩にようにはいきませんが、黄色く紅葉し、芽吹きもとてもきれいです。「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。」で始まる北原白秋の詩は有名ですし、日本の風景画家として有名な東山魁夷は、落葉松を題材とした作品を数多く残しています。陶淵明が日本人だったら、この詩はどう変わったでしょうか…。
2025年2月13日木曜日
水屋しごと~その1「茶碗の扱い ①」
「茶碗の扱い ①」
茶碗に水やぬるま湯を入れ、茶碗の内と外をていねいに洗う。
少し水を張った茶巾盥に入れ、上から柄杓でお湯をかけるのもよい。
ただし、楽茶碗などは底の外側に水をつけすぎると欠けてしまうので、数秒でOK。
乾いた布で押さえるようにして全体をゆっくり拭く。
茶碗に水を入れ、よごれているところを洗って、水を捨てる。
普段でも、湯通し(お湯をいれて、すすぐ)し、乾いた布巾で丁寧に拭く。
陰干ししてから、箱に入れる。(十分乾かさないとかびて、においがつく。)
楽茶碗などは箱に入れるまで少なくとも2~3週間陰干し。
十分乾かしてからしまう。
布や薄紙に包んで、箱に入れる。箱の中で茶碗が動かないように、隅に薄紙を
まるめて入れたり、ながい短冊状に折って、二本をたすき掛けにして端に詰める。
箱も風通しの良いところに置く。
先日の結び方は、「四方右掛け」。右上に四角を作る。「四方左掛け」もある。
蓋に文字が書いてあると、それに合わせて右掛けになったり、左掛けになったりする。
最後の蝶結びが縦結びにならないようにする。