2025年7月6日日曜日

今日の軸:「星河清涼風」

 「星河清涼風(せいが りょうふう きよし/せいか せいりょうのかぜ)」


七夕の時期によく使われます。
「星河」とは、天の川・銀河のことです。
「天の川を眺めていたら、涼風が吹いてきた。(身も心も清らかな気分になった。)」ということでしょう。

一応、禅語と言われますが、原典は見つかりませんでした。ただ、中国4000年の歴史ですから、どこかの書物にこの言葉があるのかもしれません。

茶の湯でのおもてなしは茶事に集約されます。
茶事とは、単にお茶を飲むだけでなく、亭主と客の心の交流を深めることを目的としています。ある一定の形式で進められるものです。儀式という人もいますが、宗教色があるわけでもなく、堅苦しいものでもありませんが、茶の湯の世界を知らないと、戸惑うことにはなるでしょう。
お客をもてなすための茶事では、テーマを決めて軸の言葉を選んだり、道具を取り揃えたりします。テーマとして、お正客の還暦をお祝いする茶事など、お呼びした正客絡みのものもありますが、気の置けない仲間を招待するときには、季節的なものや年中行事を選んだりもします。

七夕は、実は日本の伝統的な行事『五節句』の一つです。
五節句とは、中国から伝わった風習をもとに、日本独自の文化と結びつき宮中の年中行事になり、庶民にも広がり発展してきました。
・人日(じんじつ)1月7日 七草の節句 七草粥を食べて無病息災を祈る
・上巳(じょうし)3月3日 桃の節句(ひな祭り) 女の子の成長と健康を願う
・端午(たんご) 5月5日 菖蒲の節句(こどもの日) 男の子の健やかな成長を祝う
・七夕(しちせき)7月7日 星祭り 織姫と彦星の伝説にちなみ、願いごとを書く
・重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句 長寿や厄除けを願う

それぞれ季節の節目として『節句』という言葉が用いられています。
かくして、恰好の茶事のテーマとして使われることも多いです。
で、いまの時期は、『七夕』というわけです。

五節句については、そのうち、解説しますね。

さて、たびたび「茶事」の言葉を聞くことも出てきました。なんなんだろう、経験してみたいなあ、と思い出していることと思います。(そうであってほしい…)
薄茶と濃茶の平点前ができるようになって、炭手前が理解できるようになったら…ね。
(2025.7.5 談)



2025年6月25日水曜日

今日の軸:「一以貫之」

 

「一以貫之(いちいかんし/いちをもってこれをつらぬく)」

小さい子が一生懸命引っ張ってるのに、少しも動こうとしない黒牛の絵とともに、この言葉が書かれています。これをみると、なんとなく意味がわかった気になりますね。

このように、絵が添えられているものを「賛(さん)/画賛」と言います。「賛」は「褒めたたえる」とか「助ける」という意味です。

原典は『論語』里仁(リジン)篇 (「里人」と書いてあるのもある)

子曰、参乎、吾道一以貫之。
曾子曰、唯。
子出。
門人問曰、何謂也。
曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。

[読み下し文]
のたまわく、しんや、みちいつもっこれつらぬく。
曽子そうしわく、
ず。
門人もんじんうてわく、なんいいぞや。
曽子そうしわく、夫子ふうしみちは、忠恕ちゅうじょのみ。

[意味]
孔子が言った、「参よ。私の人生は一つの使命で貫かれているのだ」と。
「はい、理解しております」と曽子(参のこと)は答えた。
孔子はその場を出て行った。
一緒にいたほかの門人が、「今の話はどういう意味ですか?」と聞いた。
曽子は、「先生の人生は忠恕の道で貫かれているのです」と答えた。

「忠」は真心(自分の良心に忠実であること)、「恕」は他人に対する思いやりを意味します。儒教では、この「忠恕」の精神が、「仁(最高の徳)」の根本であり、孔子の教えの中心的概念です。

禅僧が「自分は、自らの信じるところによって進んできた」ことを表明するときによく用いられるそうです。

私たち凡人には、忠=自分の良心に忠実であること、はそんなに難しいことではありませんが、恕=他人に対する思いやり、はなかなか難しいです。
「思いやりって本当は何?」と思ったこと、ありませんか?
公平であること?寛容であること?同情すること?心をシンクロすること?助けること?
新一万円札の渋沢栄一の著書「論語と算盤」の中には、「忠恕」の精神を重視し、実践したとあるそうです。

「自」(自分)に対しては、ぶれない心で、目的に向かって努力を続け、信念を貫き、「他」(外)に対しては、誠実さや思いやりを大切にすること…頑固とやさしさを合わせ持て、そんなことを言っている言葉ですね。
(2025.6.24 補)

「茶の湯」と「茶道」どう違う?

 「茶の湯」と「茶道」どう違う?

各種の生成AIにこの質問をすると、大体同じ答えが返ってきます。日本人の共通理解とみていいでしょう。
・茶の湯とは…抹茶を点てて楽しむこと、お茶会、おもてなしの行為。
       視点としては、文化的で、やや古風。
・茶道とは…(裏千家では『ちゃどう』と読みます。)
      お茶を点てる行為を通して、精神性を修養。
      礼儀作法を身につける『道』であって、体系化されたもの。哲学的。

茶の湯とは、ただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし
この言葉は、利休居士の言葉として伝えられていて、『利休道歌(利休百首)』の中におさめられています。
入門したての頃は、これを言われても、「それ以外に何があるのか」と思ってしまいます。
しかし、何年かお茶(茶の湯?茶道?)を続け、点前の所作や精神的修練を先生から教えていただくにつれ、本質が分からなくなってきます。そのとき、この言葉を聞くと、また違った感慨を持ちます。

さて、日本には『道』のつく文化体系が、いろいろあります。
剣道、柔道、弓道、合気道、空手道などの武道系のもの、茶道、華道、書道、香道などの文科系のもの、日本人以外でも注目されている武士道(何系というのでしょうか…)。
これらは主に、明治時代以降に体系化されたようです。

では、茶道という言葉はいつごろから、でてきたのでしょうか。
室町時代には、『茶の湯』の言葉が使われました。
15世紀以降、村田珠光、武野紹鴎、千利休という系統では茶の湯の精神性が深められ、わび茶が確立されました。その後、江戸時代初期に『道(どう)』の部分が重要視され始め、精神性を深めていき、概念として定着したのは、江戸時代中期以降というのが定説です。

千利休自身は、茶の湯を「数寄道(すきどう)」と呼び、古田織部は「茶湯」と呼び、小堀遠州が「茶の道」と「道」の字を使い始め、それが「茶道」という言葉につながっていったとも言われています。

「数寄」とは、本来「好き」のことです。
「歌」が文化の中心を占めていた平安時代には「数寄」は「歌道」を表していたのが、歌道が廃れるにつれ、「茶の数寄」を表すようになっていったという背景から、利休が茶事に使う座敷を数寄屋と名付け、数寄道に繋がっていったのかもしれません。

近代においては、数寄者(すきしゃ)は、茶の湯を趣味とする人を指します。
特に「名物(茶道具として特別な物)」に関心を寄せた人がたくさん出現します。財閥出身者や個人資産家が、日本国外に流出した美術品など買い取り、大規模な茶会を開催したりしました。現在、価値ある茶道具を所蔵する美術館がたくさんありますが、その貴重な品々を収集した人たち、益田鈍翁、原三渓、松永耳庵、根津青山(嘉一郎)、小林逸翁(一三)、高橋箒庵、畠山即翁(一清)、五島慶太、細川護立、大原孫三郎、川喜田半泥子、松下幸之助という方たちがいたからこそ、現代の我々は、古い時代からの貴重な茶道具を鑑賞できるのです。
(2025.6.25 閑話休題)


2025年6月11日水曜日

今日の軸:「千年翠」

今日の軸:「千年翠(せんねんのみどり)」

この場合の翠は、松の木をあらわし、長寿をお祝いする席などで使われる言葉です。

が!

禅語では、『松樹千年翠 不入時人意』と続いています。
この対句の部分は『ときのひとにいらず』と読み、『ときのひと』つまり『世の中で注目される人』には入らない⇒世の中で目立たない人⇒注目されていない、となります。

で、どうなるか、と言うと…

松の木は、千年(長い時間のこと)の時を経ても、変わらず緑を保っているが、人々はその背景にある目立たない地道な努力があることを、見逃してはならない、という意味です。

『松柏千年靑』も同じ意味です。こちらのほうが先らしい(?)。

もともとは、南宋時代の禅僧・石田法薫(1171~1245)の法語であり、禅語集『続伝灯録』には

松柏千年靑  松柏(しょうはく) 千年(せんねん)の 青(あお) 
不入時人意  時人(じじん)の 意(い)に 入(い)らず
牡丹一日紅  牡丹(ぼたん) 一日(いちじつ)の 紅(くれない)
滿城公子醉  満城(まんじょう)の 公子(こうし) 酔(よ)

とあります。後半の『牡丹云々』は、『牡丹のような一日しか咲かない紅の(華美な)花には、城の中の貴人の誰もが心奪われる』となりますが…

だから、何を言いたいのかな?

禅語の意味するところは、難しいの一言につきます。私たちは禅の修行をしていませんから、悟りを開いた禅のお坊さまたちの解釈を聞くに限ります。

今回の『松樹千年翠』で感じ入った解説は、
「この禅語は、千年の寿を寿ぐだけの言葉ではありません。時の長さではないのです。どのような時にも驕らず、屈せず、ただひたすら自分の道を行く、変わらぬ道心を讃える言葉です。・・・どんなことであっても、大切なのは、次の一歩。この次の一歩を全身全霊で続けることが、千年の寿に相応しいことだ、千年の寿に負けない大切な修行の魂なのだ、ということを言っているのです。」
というお坊様の言葉でした。

参考:
https://note.com/myoukishuken/n/n3454ae06c3c7

(2025.6.10 補)


2025年6月10日火曜日

花入:籠いろいろ

 花入(はないれ):籠いろいろ

華道のほうでは、花器(かき)とか花瓶ということが多いですが、お茶では『花入れ』の言葉をよく使います。

前にも書きましたが、3つの格があります。主に材質で分けられます。
金物や唐物青磁は『真』、釉薬のかかった陶磁器は『行』、 釉薬のかかっていない陶磁器や竹・籠などは『草』の格になります。ただし、竹で編んだ籠でも、唐物(中世の中国からの到来物)は『真』になります。

利休さまが花の入れ方として、
「花は野にあるやうに」
「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝、かろくいけたるがよし。勿論、花によりてふわふわといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いや也。四畳半にも成りては、花により二色もゆるすべしとぞ。」
という言葉を遺されていらっしゃるので、四畳半以下の小間では「一種二枝」で究極の自然体をめざすことになります。

しかし、『草』の花入れの籠は、数種(奇数がいい)の草花をいれて使うこともあり、5月から10月の季節に使われます。

また、歴代のお家元のお好み物も数々あって、楽しいものがたくさんあります。
・宗全籠…久田宗全(江戸前期の茶人。晩年は三千家の長老格)の好みの置き籠。
     いろいろな好み(デザインが微妙に違う)のものがある。
・繭籠…淡々斎好。掛花入と置き花入がある。
・鮎籠…京都の桂川の鮎漁に用いたといわれる。掛花入
・鶴首籠…玄々斎好、鵬雲斎好など。置き籠
・蝉籠…久田宗全好。床柱に掛けた姿が蝉が木に止まっているように見えるから。
・有馬籠…豊臣秀吉が有馬温泉で茶会を開いたときに、千利休が魅せられ愛用し始めた。
・鉈の鞘籠/鉈籠…利休所持。薮内家伝来が有名。鉈の鞘(さや)の形。掛け花入
・清澄(せいすみ)籠…置花入
・末広籠…玄々斎好。切箔押黒塗の受け筒が添っていて、この筒だけでも花入になり、
     梶の葉を蓋代わりにして水指に用いる。
・三友籠…淡々斎好。『雪月花』の友=自然の美しさを愛でる、という茶道の心を表す。
・魚籠(びく)…利休所持。千利休が魚籠を花入に見立てた、あるいは、
     唐物籠を写し、小さな耳をつけたのではないかともいわれるす。
・桂籠/桂川籠…利休が京都の桂川で出会った漁夫の魚籠(びく)を花入にした。
     利休⇒小庵⇒宗旦⇒山田宗徧 のものが有名。
・宝山籠…置き花入
・瓢(ひさご )籠…置き花入、掛け花入
・粽(ちまき)籠…置き花入、掛け花入
・楓籠…利休好、即中斎好、禄々好
・方円籠…則中斎好。置き籠
・鵜籠…鵜飼漁で鵜を収めるために使われる籠を見立て。置き花入。
・網代籠…置き花入
・虫籠…千宗旦が見立て。鈴虫を入れて口栓をし鳴声を楽しむための小形の虫取籠。
     立鼓籠
・加茂川籠…又玅斎好、掛け花入
・立鼓籠…一燈好。鼓(つづみ)の形。置き花入

参考:
(2025.5.27 補)

2025年6月9日月曜日

「正座」を修行する

 

 「『正座』を修行する~「正座ができない」若い人たちへ」

せっかく、茶の湯に興味を持っているのに、正座ができないばっかりに、見ているしかない…というのは、もったいないので、正座に挑戦いたしましょう。

歳を取ってきても、正座がだんだんできなくなるのは、世の常…ですが、「100歳になっても筋肉はつく」のも事実なので、若ければ、もっとなんとかなるのではないか、と目標を定め、「お茶をやりたい」という強い思いを持ち続けることが大事です。(実体験から確信しています!)

【茶道での座り方(正座)】
① 膝と膝の間に、男性は握りこぶし2つ/女性は1つの空間を取る。
② できたら、足の親指どうしが重なるようにつける。
③ 踵(かかと)と踵の間にお尻を入れる。
(踵の上にすべての体重をかけると、正座は長続きせず、しびれる。)

イメージとしてはこんな感じです。
【訓練の仕方】
上のような体勢が取れたら、お尻をゆらし、右足と左足に交互に体重をかける。
(はじめは1分もできなくても、毎日少しずつ1か月くらいは続けてみましょう。)

【しびれたら】
・いつもは、左足と右足の親指を重ねるくらいだが、それを脛(すね)の中心あたりまで、交差させ、体重をかけてみる。
・しばらく、跪坐(きざ)でしびれが取れるまで、待つ。
 跪坐:両膝を床につけたまま、足の爪先を立て(畳につけて折り曲げる)、踵(かかと)を揃え、踵の上に腰をおろして、しばらく体重をかける。

【世の中で正座ができない人に勧めている方法】
YouTubeには、「正座ができるようになる」方法がたくさん紹介されています。その中で、自分に合ったものが見つかればいいのですが、ほとんどの紹介者は、正座ができている人なので、紹介されている筋トレとかが、本当に正座のできない人には、つらくてつらくてどうにも使えない、というものが散見されます。

基本的には、
① 足首の柔軟性(足の親指どうしを重ねるためと、跪坐のため)
② ふくらはぎの柔軟性(一番体重がかかるので、血行が悪くなるため)
③ 膝の前後の筋肉の柔軟性
④ 股関節の柔軟性
の4つが大事です。

特に、足首の回りには、小さい骨がたくさんあり、それのすべてに筋肉がついているので、あらゆる角度に動かして柔軟にしておかないとなりません。長く正座をして立つと、足首が固まってしまい、バランスがとれなくなり、コケることがありますので、柔軟性をつけましょう。一番簡単な方法は、手で足先をもって足首をよく回しておくだけでもOKです。

「正座すると膝が痛い」という自覚がありますが、膝というより、ふくらはぎとももの筋肉をつけて、柔らかくすると、膝の痛みは軽減します。

股関節は、正座には、あまり関係なさそうに感じてしまいがちですが、正座をすると、一番最初に血行不良を起こして、足に血が行かなくなり、しびれの原因を作ります。股関節を開くことは日常の生活では、あまりないので、重点的にする必要があります。柔軟にしておくと、血行が改善されて、正座を続けることができます。

自分なりに考えた筋トレでもOKですので、①~④に効きそうな運動を工夫してみてください。

正座に関するおすすめの動画
(2025.5.27 補)






2025年5月29日木曜日

今日の軸:「葉々起清風」

 「葉々起清風(ようようせいふうをおこす)」

5月から7月に掛けられることが多い言葉です。

木々の葉が揺れて、さわやかな風を起こしている…というような、水彩画で書いてみたいような初夏の自然の風景を思い起こさせます。
・・・と、ここまでは、この字句だけからみる凡人の感想ですが。

実は、原典には、「為君葉々起清風」と「為君」が頭についています。この「為君」がつくと、「あれっ?単なる風景描写ではない?」と分かってくるのですが。

南宋時代の禅僧・虚堂智愚禅師(1185-1269)の遺した語録『虚堂緑』が出典です。

誰知三隱寂寥中 (たれ)か知る 三隠(さんいん)寂寥(せきりょう)の中(うち)
因話尋盟別鷲峯 話に因(より)て 盟(めい)を尋(つい)で 鷲峰(しゅうほう)に 別れんとするを
相送當門有脩竹 (あい) 送りて 門に 当たれば 修竹 有(あ)
爲君葉葉起清風 君が為に 葉葉(ようよう) 清風を 起こす

虚堂智愚禅師は、南宋時代の有名な禅僧です。(門下の大応国師は日本の臨済禅の礎です。)
その禅師のもとに三人の禅僧(衍・行鞏 ・如珙)がやってきました。三人は中国浙江省の天台山国清寺に旅立とうとして、虚堂禅師のいる鷲峯庵を訪ねてきたのです。国清寺は、伝説の禅僧、寒山・拾得(絵画にもよく描かれていて、東京博物館所蔵の『寒山拾得図軸』は重要文化財)と師の豊干和尚の三聖のいたところです。そこに修行に向かう三人の清らかな志に深く共鳴している虚堂禅師が門まで送りに来ると、一陣の風が吹き、そばの竹の葉が、さやさやと揺れました。揺れている竹の葉が、友人たちを送っているかのよう…

この詩は『送僧頌』として知られています。
「頌」「偈頌(げじゅ)」は、禅宗では、仏の功徳や教え、悟りの境地などを賛美する詩や歌のことで、経典の中や、禅僧などが詠んだ詩を指します。

ということから考えると、この頌は何を言わんとしているのでしょうか。
旅もままならない時代、もう会えないかもしれないという想いもあるが、清らかな志をもって、修行に向かう同志、シンクロする想い…
一陣の風、我が心に同調するように揺れる笹の葉…
言葉にできないせつない気持ちを代弁してくれているような…

もともと、禅語は以心伝心の世界。
修行もできてない凡人でも、その人なりに何かを感じることが大事です。
(2025.5.27 補)

2025年5月6日火曜日

今日の軸:「春色無高下」

「春色無高下(しゅんしょくこうげなし)」

春はすべてのものに平等に降り注いでいる、という情景を詠んでいます。
(「だから何?」とつっこみたくなりますね!)

原典は、『圜悟語録』。実は、この句には、対句があります。

 春色高下無し(しゅんしょくこうげなし)
 華枝自短長(かし おのずから たんちょう)

対句とともに、この字句は何を言いたいのか、禅的な解釈を紹介します。

前半は、「春の日差しが山や川、花々や木々、すべての動物(お金持ちにも貧乏な人にも、偉い人にも偉くない人にも)、すべてのものに平等に降り注いでいる。」という 万物平等 を説いています。
後半は、「春の日差しが、平等に降り注いていても、花の枝は、短いものも長いものもあって差があり、自然と長短が出来てきて、個性が存在する。」という現実を説いています。
(仏教的には、「差別が存在する」という表現をします。しかし、『差別』という言葉は、現代の辞書や条例で、「差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である」というような定義をされていて、マイナスイメージの言葉と捉えられるので注意が必要です。仏教でいう『差別』は『違いがある』ことだけを言っていると言葉と解釈してください。)

仏教の説く『平等即差別、差別即平等』の根本思想を具現化している言葉です。つまりは、『万物はみな平等だが、その中では違いも個性も存在する。それもそれで大事。両方の概念を認めてバランスを取った考え方をしよう』ということになります。

ネット上には、この字句についての解釈が散見されます。解釈の微妙な違いもあり、比べて読んでいると、訳が分からなくなってきたりしますが、修行中の一般人の私たちとしては、『華枝自短長』という心で対応していきまょう。

【参考サイト】
(2025.4.26 談)


2025年3月26日水曜日

茶碗:茶碗の部分の名称

 「茶碗の部分の名称」

お茶碗は、いろいろな形がありますが、その形を鑑賞するにあたって、ポイントとなるお茶碗の部分の名称です。
  1. 口縁・口造り:端反口、蛤口、直口、玉縁、姥口、樋口などいろいろ。
  2. 見込み:底から中ほどまでの広さ。広いほうが点てやすい。目跡(めあと。茶碗を重ねて焼くときに、茶碗の間に挟む砂粒の跡)があったりする。
  3. 茶溜まり:内側の底の真ん中のところの丸いくぼみ。「ロクロで作るとき、見込みの一番底(『底切れ』)は、粘土の乾燥時の収縮に追従できない中心部分がパックリと割れる場合があり、それを防止するために粘土に圧力をかけて締める作業を行う。通常は少し凹んだ形になる。手作り茶碗では、腰の部分を作るときに手で抱え込むので、底部分が自然に窪んだ形状になる。」という制作上の必然性からできたもの。「茶を飲んだあと、どうしても飲みきれないわずかな茶がここに溜まるので、飲み終わったあとの茶碗もきれいに見せるため必要」と言う人もいるが、それは結果論。茶溜まりが深すぎると、うまく点てられない気がするが、経験できる茶碗に出会ってないので…何とも言えない。
  4. 高台:袋高台、ベタ高台、碁笥底、円座高台、竹節高台などいろいろ。底の形状も切高台(きりこうだい)、三日月高台、四方高台、割高台(わりこうだい)などいろいろ。
  5. 兜巾:ヘラで高台を削るときにできる尖った部分。
  6. 高台内・高台際:「梅花皮(かいらぎ)」(井戸茶碗などで、高台の近くに釉薬が粒状に縮れた状態で残ったもの)や土が削れるときにできる「縮緬皺(ちりめんじわ)」などがあるのもある。
  7. 茶碗の形:碗形、井戸形、天目形、沓形、片口形、筆洗形、枡形、場盥形などいろいろ。
  8. 畳付:焼成時に釉薬がくっつかないようにするための目跡(へこんでいる)があったりする。
  9. :貫入(釉薬の表面に入る細かいひび割れ)があったり、伊羅保(肌がざらざら)だったり、釉薬が思わぬ景色を見せてくれたり、素敵な絵が描かれてあったり、窯変していたり…と観賞するポイント大。
(2025.3.25 補)

今日の軸:「喫茶去」

「喫茶去(きっさこ)」

「和敬清寂」(利休さまの説く茶道の極意)⇒「一期一会」(すべての出会いの極意)⇒「喫茶去」(おもてなしの極意)と続く、茶の湯の基本的な概念です。

「どうぞ、お茶でも召し上がってくださいな」という意味で、茶席で好まれる禅語です。

ただ、禅宗では「お茶を飲みに行け、お茶を飲んで目を覚まして来い」という叱責する言葉だそうで…
『趙州喫茶去の公案』としてなかなか意味深い解釈を求められているものです。
  ※趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は唐代の禅僧

茶の湯初心者の私たちとしては、最終的にめざす境地として、「お茶でのおもてなしは、相手の地位や肩書にとらわれることなく、平等に接しなさい。」という心の在り方です。
亭主は『和敬』の心をもって「お茶を一服いかがですか」と言い、客のほうも変なことを言って辞退したり緊張していただいたりすることなく、『和敬』の心をもって素直に「いただきます。」とありがたくいただいて味わう…これがお茶の世界の醍醐味です。
注意!
「なんか図々しい人ね」と思われないように!!
それには…日頃が物をいいますね!!!

---------------------
【原典】『五灯会元、巻四、趙州従諗禅師』、『趙州録』、『碧巌録』
師問新到、曾到此間麼(し しんとうに とう、かつて すかんに いたるや。)
曰、曾到。(いわく、かつて いたる。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
又問僧。(また そうに とう。)
僧曰、不曾到。(そう いわく、かつて いたらず。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)
後院主問曰、爲甚麼曾到也云喫茶去、不曾到也云喫茶去。のち、いんじゅ、とうて いわく、なんとしてか、かつて いたるにも また きっさこといい、かつて いたらざるにも また きっさこといいし。)
師召院主。(し、いんじゅ と めす。)
主應喏。(じゅ、おうだく す。)
師曰、喫茶去。(し いわく、きっさこ。)

※ 「到此間麼」は、物理的な意味のココではなく、精神的な意味でのココ(つまり悟りの境地)を意味していることに気づくとわかりやすい、という解説がありました。
う~~~ん!
たしかに、そう考えると『喫茶去』は院主を叱責している言葉であることも、理解できます。
禅語は、難しいですね。

今日のもう一つの言葉(?)『円相』については、いずれ!
(2025.3.25 談)




2025年3月10日月曜日

お濃茶は

  【お濃茶は】

『茶事』は、亭主が親しい人を招いて行われる茶会で、おもてなし文化の究極のものです。
茶室という特別な空間に入っていただき、炭手前をしてお湯を沸かし、お食事をしていただき、お菓子を召し上がっていただいたあと、おいしい一服の濃茶を差し上げる、その余韻を楽しんでいただくために薄茶を差し上げる、という一連の過程が進行します。(4時間くらいかかります。)その日の茶室の設え・道具の選択、懐石料理などは、この『おいしい一杯の濃茶を気持ちよく飲んでいただく』ためのものと言っても決して過言ではありません。
また、お茶事は、あくまで、正客がメインのお客であって、その日のテーマや設えは正客に向けてのもの、というのが基本です。

このお茶事というイベントの中心となる『お濃茶』ですが、市井のカフェ・喫茶店や公園や神社仏閣でのお呈茶(お茶をさしあげること)では、まず経験することができません。
それでも、都内では浅草などに数は少ないですが、濃茶が飲める茶房やカフェがあるらしいので、もし、見つけたら、入ってみるといいでしょう。そこでは、面倒な作法とかはなしに、お濃茶を楽しむことができるはずです。

濃茶を出すカフェが圧倒的に少ないのは、おいしく濃茶を練る(薄茶は点てるという)のに、結構な技術が必要なのが原因かと思います。使うお抹茶も違います。薄茶は一人前2g(茶杓1杓半)ですが、濃茶は一人分として4g(茶杓3杓)が基準です。使う茶筅も本来は違うのですが、最近はそこまで明確に分けて使う…機会(?)は少ないです?!

お菓子も違います。濃茶のほうは主菓子といいます。練り切り、こなし、饅頭というような種類のお菓子を”縁高(ふちだか)”という重ねられる箱に、一人前として一段に一種1個ずつを入れるのが本来の形です。「こんな大きな箱にお菓子ひとつとは、いくらなんてもおかしいんじゃないか」と思いたくなりますが、上のほうのお点前になると、お菓子は一人前として種類の違う物が3つとか5つとか出ます。そのためにはちょうどいい器の大きさなのでしょう。大寄せのお茶会などで、一人ひとつの場合、一段に同じお菓子を複数並べることもあります。いずれにしても、お作法がありますので、そのうち、しっかり体得しましょう。

一番大事なこと
お濃茶をいただくとき、心得ておかないといけない一番大事なことは、一盌のお濃茶を客全員(高々5人まで)で少しずつ飲むことです。「おもあい(思相)でいただく」と言います。よく「濃茶は三口で飲む」と言われますが、そんな感じです。そのための作法もあり、これもそのうち、しっかり体得しましょう。
もし、体得しないうちに、大寄せのお茶会に行って、濃茶がでてしまったら…お隣の方のやりようを、しっかり真似をして、失礼にならないようにしてください。それも難しかったら「はじめてなので教えてください。」と素直に聞きましょう。お茶人は気配りできる人たちですから、教えてくださるはずです。

2025.3.7 談・補

2025年3月8日土曜日

今日の軸:「歳月不待人」

 「歳月不待人(さいげつ ひとを またず)」

12月や、年度の切れ目に床にかけられることが多い字句です。
学生でなくとも、師走ともなれば、あ~あ、今年ももう終わっちゃったなあ、という感慨とともにつぶやきたくなります。

一般的には、「歳月は待ってくれない。若いうちに勉学を励もう」「年月は人間の営みに関係なく、刻刻と過ぎてしまい、待ってはくれない。だから頑張ろう」「限られた時間を大切にしよう」というような、どちらかというと叱咤激励するような意味で使われます。

この字句を見て、同様な意味で「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という字句を思い浮かべてしまう人も多いことと思います。

ただ、本歌『陶淵明:雜詩其一』にある意味はちょっと違っているようで…
ちゃんと調べてみると…あれれれれ?
マ、イイジャナイデスカ!これもまたこれで楽しいですネ。一理ありますから!

【参考】
陶淵明:「雜詩 其一」 
 人生無根蔕 じんせいは こんていなく
 飄如陌上塵 ひょうとして はくじょうの ちりのごとし
 分散逐風轉 ぶんさんし かぜをおって てんじ
 此已非常身 これ すでに つねのみに あらず
 落地為兄弟 ちにおちて けいていと なる
 何必骨肉親 なんぞ かならずしも こつにくの しんのみ ならん
 得歓當作楽 かんをえては まさに たのしみを なすべし
 斗酒聚比鄰 としゅ ひりんを あつむ
 盛年不重来 せいねん かさねて きたらず
 一日難再晨 いちじつ ふたたび あした なりがたし
 及時當勉励 ときにおよんで まさに べんれいすべし
 歳月不待人 さいげつは ひとを またず

朱熹(朱子):「偶成」(近年は、作者は別人との説あり)
 少年易老學難成 しょうねん おいやすく がく なりがたし
 一寸光陰不可輕 いっすんのこういん かろんずべからず
 未覺池塘春草夢 いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ
 階前梧葉已秋聲 ごよう すでに しゅうせい
(2025.3.7 談・補)



2025年2月21日金曜日

焼物:「交趾焼」

 「交趾焼(こうちやき)」

華やかな色合いで細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物です。明代後期に中国で作られた三彩陶器です。

ベトナムのコーチシナ(交趾支那)との交趾貿易船でもたらされたことに由来する名前で、ベトナムの名前が使われていますが、実際の産地は中国福建省南部の漳州ということが最近分かったそうです。
日本では、江戸時代に京都から発展。京焼・清水焼を代表する技法としての交趾焼が有名になりました。茶の湯が江戸時代に入り、次第に華やかなものが好まれていった時代背景に合致したといえましょう。茶の湯はすべてわび茶、というわけではないこともなんとなく理解できますね。

成形された生地を素焼きまたは高温で焼き、次に交趾釉を施釉してから、低火度焼成して完成となるそうです。下絵で模様を作る技法として、 彫刻、盛り上げ、椎泥、イッチン、貼付け、線刻、泥化粧など。
黄交趾、紫交趾、緑交趾というように主に使われている色を付けて呼ばれます。

【言葉(参考)】
・椎泥:椎木(しいたき)の樹皮に含まれるタンニンを染料とする。
一珍/一陳(イッチン):スポイト状の道具を使って盛り上げた線文や模様を描く。

(2025.2.20 補)


今日の軸:「冬嶺秀孤松」

 「冬嶺秀孤松(とうれい こしょう ひいず」

如月(2月)・大寒のときに利用されることが多い禅語です。

「ほとんどの樹木が葉を落としている冬の嶺(みね)で、独り青々と葉を残している松が際立っていること」という景色を表しています。
これを禅語として解釈すると、松を仏様の教えとし、どんなものにも惑わされず、煩わされないことを説いています。人の生き方でも、人の心を苦しめる煩悩や欲望に流されることなく、平然と堂々と凛として生きていきたいものです。
単なる景色を謳ったものとしてではなく、その中から人生の教訓を学び取る…なかなか難しいですね。

原典は、陶淵明(とうえんめい))『四時歌』から
 春水満四澤:春水(しゅんすい)四澤(したく)に満ち
 夏雲多奇峰:夏雲(かうん)奇峰(きほう)多し
 秋月揚明輝:秋月(しゅうげつ)明輝(めいき)を揚げ
 冬嶺秀孤松:冬嶺(とうれい)孤松(こしょう)秀(ひい)ず

春水満四澤は、春爛漫のときに使われることも多い禅語です。

余談です。マツ科の松はほとんどが常緑樹ですが、カラマツ(唐松、落葉松とも書く)は、珍しく葉を落とします。日本原産です。この詩にようにはいきませんが、黄色く紅葉し、芽吹きもとてもきれいです。「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。」で始まる北原白秋の詩は有名ですし、日本の風景画家として有名な東山魁夷は、落葉松を題材とした作品を数多く残しています。陶淵明が日本人だったら、この詩はどう変わったでしょうか…。

(2025.3.20 談・補)

2025年2月13日木曜日

水屋しごと~その1「茶碗の扱い ①」

  「茶碗の扱い ①」

1.使うときの準備
 茶碗に水やぬるま湯を入れ、茶碗の内と外をていねいに洗う。
 少し水を張った茶巾盥に入れ、上から柄杓でお湯をかけるのもよい。
 ただし、楽茶碗などは底の外側に水をつけすぎると欠けてしまうので、数秒でOK。
 乾いた布で押さえるようにして全体をゆっくり拭く。
2.片づけるとき
 茶碗に水を入れ、よごれているところを洗って、水を捨てる。
 普段でも、湯通し(お湯をいれて、すすぐ)し、乾いた布巾で丁寧に拭く。
 陰干ししてから、箱に入れる。(十分乾かさないとかびて、においがつく。)
 楽茶碗などは箱に入れるまで少なくとも2~3週間陰干し。
3.箱にしまうとき
 十分乾かしてからしまう。
 布や薄紙に包んで、箱に入れる。箱の中で茶碗が動かないように、隅に薄紙を
 まるめて入れたり、ながい短冊状に折って、二本をたすき掛けにして端に詰める。
 箱も風通しの良いところに置く。
4.箱の紐の結びかた
 先日の結び方は、「四方右掛け」。右上に四角を作る。「四方左掛け」もある。
 蓋に文字が書いてあると、それに合わせて右掛けになったり、左掛けになったりする。
 最後の蝶結びが縦結びにならないようにする。
(2025.2.6 談)
 

2025年2月10日月曜日

今日の軸:「和敬清寂」

 「和敬清寂(わけいせいじゃく)」

「和敬清寂」は、裏千家では、四規(しき)といい、茶道の根本精神を要約したものです。利休居士が提唱し、江戸時代前期から一般化されたと言われています。

『和』:茶道のすべての基本。茶会では主客双方で心を合わせて茶会を良いものにするためにまず「和」の心が必要です。
『敬』:お互いに尊敬しあうこと。客は亭主にへつらわず、亭主は客に奢らず。互いの思いやりを忘れないように。
『清』:きよらか。目に見える清らかさだけでなく、心の中も清らかであるように。
『寂』:何物にも流されず、どんなときにも動じない心。

・『清』は『静(しずか)』ではないことに注意してください。
・『寂』は、なかなか難しい概念です。『侘び寂び(わびさび)』の『寂』の字です。『わび茶』は、珠光~紹鴎~利休の流れで完成されました。その美意識の根底が『侘び』と『寂び』です。『侘び』は『わぶ』の名詞形で、本来は「気落ちする、心細く思う」というようなマイナスイメージの言葉でしたが、中世になると、不完全/不足の美しさを表現する言葉となります。また、『寂び』は「さぶ」という動詞の名詞形で「古くなる・色あせる」など、やはりマイナスイメージの言葉でしたが、古くなったものが枯れていき、その中に奥深いものや華麗なものが現れるという美意識を表すようになります。折しも中世の「人生の真実を表面的な美しさよりも内面的な充実に求める」という仏教思想に影響され、能、連歌や茶の湯にも精神性が求められていきました。このことから、『寂』は、表面的な美しさ・豊かさより心の美しさ・豊かさを目指す言葉、と解釈されています。
(2025.2.6 補)

今日の軸:「星河清涼風」